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不安への向き合い方、その最終回答



実は私にとって『不安』こそが最大のテーマです。
そして長年追及を続けた集大成として、ここに一端を紹介したいと思います。


和田秀樹氏はこの分野の著書をたくさん上梓しています。その一つ「不安を楽しむ生き方」が秀逸です。

彼の主張は次のようなものです。
•不安と共に生きる
•不安も含めて丸ごと人生を楽しむ


「不安をなくすのは不可能」だという結論から上記の考えが最良の向き合い方だ!、と述べています。

そして不安をなくすのが不可能な根拠として、まずは以下にあげる不安の正体を知ることです。

•人類誕生以来遺伝子に刻まれている宿命と理解し、消そうとしても無駄と心得るべし。

•不安の効用を理解する
(=危機察知能力と捉える)
1.有名なゆでガエルの例えがあります。熱湯に突然放り込まれたカエルは慌てて逃げ出します。しかし水の状態から徐々に温められると気づかないうちに茹でられてしまうのです。
すなわちこの熱さはなんだかヤバいのでは?という不安があるから生きられたわけです。
2.大学受験
今の実力を過信せず、常に自分の現在地をはっきり掴むことで、本気で受験勉強に取り組むことができるのです。



浪人したら、浪人生活を楽しむ
これはひろさちや氏の言葉ですが、
和田秀樹氏とまったく同じ主張です。
一番わかりやすく、かつ最も不安に向き合う在り方の真髄を表していると思います。


目の前のことが不快だから、不満だから、思うのと違うから…
ということで、「なんとか排除しなくちゃ」と反射的に、闇雲に行動してしまう。
この行動パターンを思考停止という。

まずは、「そうなんだ」と現実を受け止める。その時、意識の視点は、あくまでも客観視。
反射的に感情に没入しないことです。

そして、状況に抵抗するのでなく、むしろ浸りきってみる。
そうすることによって、そこに喜びすら見出すことができるのです。

そこまで心に余裕が生まれてきて、ようやく自分を客観視できるようになるわけです。
そこで初めて不安から抜け出し、幸福感すら感じる心境へと心のステージが上昇するのです。


さらに生きる上で最も大切な心のありようを紹介したいと思います。
私自身ここに至るのには大変長い年月と体験を要しました。

人間というものは誰しも次のような心の癖を抱えています。
24時間何かが起こる度に常にベストの状況を求めてしまう、この目の前で起きていることに自分だけはなんとか一番いい結果を求めてしまう、こんな貪欲さ、すなわちこれを釈迦は煩悩と呼ぶ。

これらの思いは誰しも自動的に陥ってしまいます。
そこで、そんなオートマティカルな心の動きを一段高いところから眺め、踏み留まるという習慣づけが不可欠な条件となります。

このための方法が「マインドフルネス」すなわち気づきの瞑想なのです。おそらくこれが唯一の手段だと確信しています。

ここで瞑想に興味のある方のために、少し深掘りしてみたい。

バンテ•H•グナラタナの著書にマインドフルネス瞑想のすべてが集約されています。
以下は私なりにサマライズしながら解説を加えてみました。


人間はより多くを、そしてより快適さを求めてやまない、というのが本性(ほんせい)であるということ。
そしてそのことが常に現実とのギャップに不満をそして不幸感を抱いてしまうという結果をもたらしている、というのです。
そして欲には限度がないため、未来永劫この負のスパイラルは続くわけです。

だからこそこれまでステロタイプに推奨されてきた上昇思考こそが不幸の元凶なのだ、という目から鱗の視点に、思わず“ユリイカ!“の心境です。
いわば、何十年と追及してきた
幸福論の究極の答えではないだろうか、とすら感じています。

この視点をさらに発展させて、何かを選択する際に、『どちらが得をするだろうか、どちらがうまくいくだろうか、という判断基準をおかない』
ということは、その瞬間の直感、すなわち計算抜きで腑に落ちる方を選ぶべきということになります。
これにより精神的ストレスが激減します。

著者はこのことを、「幸福を求めることをやめると、逆説的に幸福が得られるのだ、」と表現しています。

また、必然的に目の前の事象に対し、先のことや過去を振り返るという作業をしなくなるわけで、その結果現在に集中することになるのです。
まさにスピリチュアルの世界における最大のテーマでもある「“今•ここ”にあれ」という究極の悟りが、実現すると言えるのではないでしょうか。


もう一つ大切なテーマが同時に展開されています。
私たちはある出来事に遭遇すると
「快•不快•どちらでもない」
の三つに反射的に識別しようとする。
この識別作業が起こる直前にこの心の動きに“気づく“ことが大切であるようだ。
本来極めてニュートラルな出来事を幻想化して識別してしまうことが悩みや苦しみを引き起こすからだという。

そしてさらに目の前の出来事を識別し判断するのでなく、瞬間に起こる“感情”だけに集中してそのままその感情を受け止め、味わうことが大切だと説いている。これは
常に第三者的な目で自分を観察することに通じると思います。

すなわち「私」という概念が、
この識別の習性を起こさせている原動力だということらしい。
この識別する働きにとどまらず、
すべての私たちの苦しみや悩みの根源こそが「私」という概念だと著者は説いている。

瞑想はこの「私」という概念から脱却する唯一の方法だという。
もちろん必要な場面では、瞬時に戻ることすら可能になるので、現実世界においても全く問題はない…と結んでいます。

釈迦が2500年前に開眼した『悟り』とは実はこのことだったのです。
仏教に造詣の深い苫米地英人博士の表現を借りると「親の命と鉛筆一本の重さが一緒であると識る」ことこそが真の悟りであるという。
その意味するところは、利己的な“我=私”という意識を取り払うとすべての存在が一つなのだと気づくわけです。


話は変わりますが、
このことを幾何学に基づいた理論展開で証明しようとする「ヌーソロジー」という世界観があります。
馴染みはないかもしれませんが、ググってみてください。かなり衝撃的であり、常識を覆すSFチックな展開に胸を踊らすこと請け合いです。
超高度なのですが、私自身もこの理論に付合させながらの説明に近く取り組もうと思います。


(*蛇足ですが、『独自のやさしい瞑想法』の開発に長年取り組んできました。一般向けとしては一つの完成形になった気がします。
メールの往復形式での紹介を個人レッスン式にボランティアでやっています。)


#不安 #悟り #釈迦 #和田秀樹 #ひろさちや#苫米地英人








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