ブッククラブ〈Language Beyond〉 #34—島尾敏雄『出発は遂に訪れず』

○開催日時 2024年5月19日(日)16:30〜18:00(jitsi meetでオンライン開催)
○課題本 島尾敏雄『出発は遂に訪れず』
◯参加者 7名

開催メモ(担当:工藤順)

「見てしまう」タイプの人、がいると思います。「見てしまう人」に対置されるのが、例えば「没入する人」です。それぞれの人が何か自分の置かれた現実を報告する時、「没入する人」は状況の内部から臨場感あふれる報告をするかもしれない。読者はそれにどきどきしたりワクワクしたり涙を流したりするのかもしれません。一方で「見てしまう人」はどうでしょうか。見てしまう人と現実の間には、薄い膜があります。本人としては、別に望んでそのように距離を保っているのではない。むしろ、状況に没入したい、世界の中でうまくやりたい、という切実な願いを持っているかもしれない。だが、どうしても世界に近づけない、自分にはそこに入ることができない。「見てしまう人」は、世界を外から描写します。それは「没入する人」と比べれば、冷ややかな世界との付き合い方です。もしかしたら笑いの要素があるかもしれないけれど、ただその笑いとは、自分自身を笑うことを含めた、皮肉の笑いになるでしょう。涙を流すかもしれないが、その涙はつねに乾いた笑いをともないます。その人は世界と一体のものにはなれず、たぶんつねに世界と「わたし」とが問題になる。そしてそのわたしは、必要以上に大きかったり、あるいは小さかったりする。

で、わたし(これを書いている人)は、作家としては「見てしまう人」が好きです。好きというか……自分を笑うように笑ってしまったり、自分との近さにイラつきを感じたり、自分を恥ずかしく思うように赤面してしまったりするのは圧倒的にそちらのタイプの作家です。それって自傷行為にも近いものじゃないんですか、と思いもするけれど、どうしてもやめられないものがあります。自分が取り組んでいるプラトーノフという作家も、間違いなくこのタイプだと思うんですよね。

たぶんですが、一言で言ってしまうと、わたしは「孤独」を理解できる人が好きなんだと思います(というか、「孤独」が想定できていない人に白々しさを感じるというか)。こんなふうに考えてみると、島尾敏雄という作家も、「見てしまう」側の作家なんじゃないかな、と思いました。ただ、島尾敏雄が好きですか、と言われるとちょっとまだよくわかりません。もう少し読んでみたい。

「見てしまう」人というのは、ある意味で自分を安全な場所に置いておける人でもあると思うのですが、島尾敏雄という作家の面白いところは、ミホさんという人と出会ったせいで、「見てしまう」ポジションが崩されて安全な場所にいることができなくなったところなのかなと思います、しかしそれでいながらも文章としては「見てしまう人」の距離のある冷ややかさがあるので、それが状況との温度差みたいなものをうんでいて、ある場所ではおかしみを誘ったり、ぞっとするような感じをもたらしたりする、のかも。

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