猫狩り賊の長 麻枝准著 感想(ネタバレ有り)

 麻枝准はマジョリティから理解されることを求めているのだろうか?誰にも理解されない、天才ゆえの、才能と代償に得ている憂鬱な日々の日常を。
 文学というものは、救いがないといけないと思っていた。それは何らかの救いでいい、世間一般で言われている救いではなくていい、オリジナルの救い。村上龍は快楽と破壊に救いを求めたし、村上春樹は限定された生活に救いを見出した、多分。
 この本はきっと、私小説風に書きながら、麻枝准本人が救いを見出そうとした作品なのだと思う。
 理解されることは救いだろうか?いや、そんなことはないと思う。苦しみを理解されても、苦しいことは苦しい。
 結局十郎丸は主人公といるのが楽しくて、見捨てられないことで、信じえることで、その後の一生を全うすることができた。
 それは救いというより執着であり、その後の人生を変える物語であった。
 十郎丸は救われただろうか?いや、そんなことないと思う。でも一生を全うすることはできた。だとしたらそれは祝福であり、やはり呪いだったのではないだろうか。
 主人公が十郎丸によりそい、理解を示そうと奮闘し、一緒に遊んだこと、それをよりどころに一生を全うした。
 多分だが、作者である麻枝准もこの作品を作ることで一時的に一生を全うする覚悟ができたのではないだろうか、そして十郎丸と同じようにすぐにその気持ちは消えてしまったのだろう。
 生き続けることは救いか?死は救いか?それでも最終的に残るのは、確かに十郎丸は楽しかったということだ、あの時確かに、それが延命するモチベーションに繋がったのなら、それは何よりも尊い思い出のはず。
 だとするならば、この本はやはり呪いであり、祝福なのだろう。
 生きることは苦しい、それは十郎丸にとっては特に苦しい、救いなどないほど。
 そんな人が一生全うするということは、とんでもなく大変なことなのだろう、自殺者が増えている現代、特に思う。
 何をやっても幸せになれない、そういう人は共感する本だと思う。僕も思わず共感してしまった。体が鉛のように重く、作品を読んでもこんなもんかとがっかりする。救いなんてないのに生かされ続ける毎日。まさに徒労の毎日だ。
 それがマジョリティ側の、無理解であるが「ただ楽しかったのだ」という記憶が、生き続ける。
 僕たちの世界なんてそんなものなのかもしれない。誰かとの楽しかった思い出が、生き続ける動機にもなりうる。
 救いとかそんなものよりも、楽しい、それだけでいい。
 穴の底にいるときは上ばかり見てしまう、けれど穴の底にいたって人生は楽しむことができる。
 僕はそんなふうに思った。けれどそのためには、やはり誰かが必要なのだろう。
 誰かを拒絶しつつも、やはりその誰かに救われてしまうのだろう、僕たちはみんな弱いから、なおさら。
 そして思ったのは僕もそういう執着があるな、それに生かされ続けてきたな、と思った。地獄のような毎日、寝そべることしかできない、世界と社会を呪い続けた毎日、昔の楽しかったあの時をもう一度という気持ちだけがモチベーションだった。今の僕もそうだ、楽しかったんだ、もう一度、そのために今も頑張っていて、また生かされ続けるのだろう。
 苦しみは減らない、生きていくことは苦しい、けど何かに生かされ続ける毎日、十郎丸は死に際に再会することができた、また、楽しい生活を送れたのだろう、それが希望。

 僕たちはやはりそんな誰かと遊んだ楽しさにどうしようもなく生かされ続けてしまうのだろう。そしてそれは、良い悪いではなく、ある種の願いとして生き続ける気がする。
 読んでよかったです。

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