ゴジラ対横綱 完全版(2020年)
「観音崎。」
車に乗った横綱はそれだけ言った。ハンドルを握る付き人の大車輪は、たっぷりと10秒は黙って、聞き返さず「はい」とだけ言った。
脳裏に疑問は無限に浮かんだが、全ては無意味だと感じた。横綱が行くと言えば行く。横綱が相撲を取ると言えば取る。やれと言えばやる。それが付き人の大車輪の役目だ。
車が発進する。車内には大車輪と横綱だけ。両者無言だ。
「ラジオ、いいすか。」
「ん。」
大車輪が沈黙に耐えかねたか、状況を知りたくなったか、ラジオをつけた。
『ーなさん、みなさん、逃げて下さい、逃げて下さい。大きな、大きな、黒い、怪獣です。今、街を燃やしています。燃やしています。逃げて、逃げて。ああ、こちらに、こちらに来ます。東京に向かっています。みなさん、逃げて下さい、逃げて。ああ、さようなら、さようなら。どうか、逃げ……』
その言葉を最後にザァーというノイズのみになり、大車輪はラジオを消した。大車輪の額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
「やっぱ自分で運転するぞ。」
「いえ、大丈夫す。付き人すから。」
カチッ、カチッ、カチッ。右折する。道は空いている、いや、対向車ばかり。当然だ。警察だって逃げ出しても文句は言われない。
大車輪がバックミラーを見ると、いつもと変わらぬ顔の横綱。恐怖も気負いも闘志も全く感じないフラットな表情。初日も、カド番も、優勝がかかっている取り組みの日も、いつも変わらない、あの顔。
だったら、自分もいつもと変わらない付き人でいよう。大車輪はそう決心した。いつものルーティンを繰り返し、少しでも横綱の力になろう。
「マックシェイク、買っていきますか?」
「馬鹿野郎、マックやってるわけないだろ。」
横綱は笑った。
「すんません。」
ヴー、ヴー、ヴー。大車輪のスマホが鳴る。親方からだ。大車輪は少し慌てて、スマホを持つ。
「自分出ます。」
「いいよ。俺が出る。」
横綱が電話に出た。
「…はい、俺です。うす、…うす。」
大車輪には電話の向こうの親方の怒号が聞こえるようだった。なぜ避難所にいない?どこへいった?なんのつもりだ?いますぐー
「うす。ありがとうございます。」
横綱は礼を言って電話をきった。
大車輪は内容を聞くのは野暮だと思いながらもバックミラーごしに視線をおくってしまい、視線に気づいた横綱は口をひらいた。
「右足だってよ。」
「はい?」
「歩き方で分かるんだよ。右足に古傷だ。」
大車輪は、つばを飲み込んだ。車内の温度があがったように感じた。
赤信号でとまる。
「あの……窓、いいすか。」
「おう。」
ヴー……と音をだしてパワーウインドウが下がると、大車輪には対向の車列がよく見えた。
疎開渋滞の車列は全く動かず、悲鳴のような断続的なクラクションと、不規則に点滅するブレーキランプの赤が、人々の顔に不安を指している。
大車輪は、その排ガスと狂騒を含んだ空気を吸って、ああ、とんでもないことがおこってるんだ、と、ようやく腑に落ちた。
*
男が、四角ばった乗用車の窓からタバコを放りすてる。
『……都心へ怪獣が向かっています。焦らず、迅速に行動してください。直ちに避難を開始してください。今から読み上げる自治体の方は……』
いっこうに進まない疎開渋滞の車列のただなかで、ラジオは大怪獣が都心へむかっているという。荒唐無稽な話だと、男はため息をついたが、引き返す気にはならなかった。
第一上陸地点、観音崎のLIVE中継。アレは、思い出すだけで吐き気がするほどひどい映像だった。アレをみれば、命知らずの戦場カメラマンでさえ我先にと疎開の車列にくわわるだろう。
そこへ、向こうから来た対向車が赤信号でとまった。
(馬鹿なやつだ。もう誰も信号なんざ守っちゃいないのに。)
そもそも、いまごろ都心へ向かうなんて、忘れ物でもしたか、とびきり愚か者かのどちらかだ。
誰かと顔をみればー
「リンちゃん?」
「あ、坂東さん。うす。お疲れ様っす。」
対向車を運転していたのは大車輪。三段目。大相撲の力士だ。そして
「お世話になってます。」
後部座席の窓から顔を出したのは、横綱だった。男は、坂東は、相撲記者だった。故に一目で理解した。
「ちょっと、勘弁してよぉ……。」
坂東は知っていた。相撲記者だからではない。その蛮勇を知らぬ者、日ノ本になし。彼は角界一の、とびきりの愚か者だった。
「ちょ、ちょっとさぁ、東京だけじゃなくてさぁ、横綱までいなくなったらさぁ、俺たちゃどうすりゃいいんだよぉ!」
「すいません。」
横綱は素直に謝った。だからそれは「止まる気はない」ということだった。
大車輪がたずねた。
「坂東さん、観音崎まで後どれぐらいですかね。」
「俺に聞くなよぉ……。」
坂東は、横綱を失いたくなかった。大車輪を失いたくはなかった。共犯になってしまう、とも考えた。だが、坂東は相撲を愛する一人だった。
「……多摩川だよ。」
坂東は目に涙をためながら言った。
「怪獣も動いてる。今から行って、体あっためてってなったら、多摩川だよ。」
「うす。ありがとうございます。」
「横綱……。」
坂東はもう涙を流していた。横綱が行ってしまう。力人の頂が、本物の益荒男が。ああ、しかし誰が止められるだろうか。勝てない相撲だからといって逃げる力士など、この世に一人だっていないのだから。
「いってきます。」
横綱はそう言って会釈した。信号が青に変わり、対向車は発車した。坂東はにじむ視界の中で、ずっとその車を見送っていた。
*
「あなた、避難バスに遅れますよ。はやく着替えてしまってください。」
「ああ。」
都内。一軒家。その一室で、戸を隔てて妻に急かされながら、老人が服を着替えている。奇妙なのは、その服。
総紫の着物だ。金糸の刺繍が入り、頭には烏帽子。足元は袴に足袋。手にはなんと、軍配まで持っている。
とてもではないが避難する格好ではない。
(自分は、ばかなことをしている。)
老人はそう思った。だが老人はいま着なければならないと感じた。なぜなら老人は行司だった。それも栄誉ある立行司の一人だった。
老人は、木村庄之助だった。
「あら、あなた。理事長から電話で、ぁぁ。」
妻がふすまを開けると、声にならない声をあげた。彼女の目には、総紫が白一色よりも明白な死装束に見えたことだろう。
「…はい、代わりました。はあ。ええ。はあ。…」
流すような返事をして、木村庄之助は電話を切った。彼は確信した。ふぅ、と、ひとつ息をはくと妻に向かい、言った。
「先に、逃げていなさい。」
木村庄之助は装束の点検をはじめた。理事長は電話口でこう言った。「皆ちゃんと避難したから。分かっているな。お前はおかしなこと考えるな。絶対に!」。思い出すと笑えた。あいかわらず嘘の付けない人だ。
木村庄之助は、自分が死を覚悟したのはいつ以来だろうかと考えた。
例えば、名跡を継いで初めて脇差の重みを感じた時。例えば、三年前の初場所千秋楽での物言。
だが、あの日には勝らない。
現横綱が、負傷休場を決めた翌日の不戦勝の勝ち名乗り。その時だ。木村庄之助は生涯にただ一度だけ、土俵上での死を覚悟した。
事は前日から始まっていた。十日目、やや小柄で知られる横綱が、最重量の大関・鯨飲を櫓投げにしたのだ。
代償は大きかった。両膝両足首脱臼、両膝靭帯損傷、全身数える気にもならない肉離れ。
翌日十一日目、小結・西ノ島が土俵に上がるとアナウンサーは「残念ながら今日から横綱は休場です。不戦勝となります。」といった。
それにも会場は落胆の声より、当然といった反応が多かった。さもありなん。担架で運ばれる力士を見て休場を予測しない者がいるだろうか。
木村庄之助もまた、関係者から不戦勝を聞かされた時には「やはりか」と一つ思ったのみであった。かの横綱の闘争心は眼を見張るものがあったが、それが蛮勇にならないか皆、常に心配していた。それが最悪の形で実現したと、そう思った。
木村庄之助がゆるりと西ノ島に向かった時、どよどよっ、と会場が揺れた。不戦勝が珍しいわけでもあるまいし、何を、と軍配を上げた。
そして、木村庄之助は軍配を上げたままで、固まった。
花道に、横綱が居た。
入院着、両足にはギプス。汗だくだ。腹ばいに這って来たのだ。どこから?誰も理解できなかった。その目は、その燃えるような目は、土俵を睨んでいる!
(上がる気だ。)
会場は静まりかえっていた。かの益荒男の怒りに触れたくない。その思いで会場は満たされ、みんな息を潜め、ただ畏れた。
土俵上の木村庄之助もまた、金縛りにあったように固まっていた。なぜなら、横綱は木村庄之助を、睨んでいるからだ。
(やめろというのか、勝ち名乗りを。その体で土俵に上がるというのか!)
木村庄之助の手は、ぶるぶると震えだした。汗がだくだくと流れ、足元に水たまりを作った。だが、生物としての本能を、行司としてのプライドが僅かに上回った。
「ッニシぃのシマぁーーーーッ!!」
木村庄之助が勝ち名乗りを上げた。
それを聞いて、横綱は顔をふせた。西ノ島が懸賞を受けとって土俵を降りるあたりで、会場もどうにか息をはいた。そうして十一日目は無事に終わった。
しかし、木村庄之助の汗は、帰りの車に乗るまで止まらなかった。夜、寝床に入った時に、歯がカチカチと音を立てていることに気づき、ウイスキーを三杯飲んで必死に眠った。
夜中に飛び起きた。五十五年ぶりの寝小便。夢に見たのは、あの、横綱の燃える目だった。
ボーン…ボーン…ボーン。
柱時計がなった。時間である。木村庄之助は姿見を確認した。総紫の行司装束に乱れはない。そして軍配を置いてスマートフォンを手に取ると、どこかへ電話しはじめた。
「もしもし、ああ、稲原さん。ご無沙汰してます。はい。忙しい中すいません。はい。内閣は。ですか。」
電話先は稲原内閣官房長官。彼は好角家で知られ、木村庄之助と個人的な親交があった。電話の向こうは慌ただしく、まさしく国難の只中である。個人的な電話をしている場合ではないだろう。
だが、どうしても木村庄之助には聞かなくてはならないことがあった。
「あの、怪獣。ええ。あれの名前を教えていただきたい。」
しばしの沈黙があった。
「…呉爾羅、ごじら、ですか。強そうな名前だ。」
木村庄之助は素直にそういった。
「はい。ありがとうございます。お気をつけて。」
電話を置き、軍配をとった。居間に通りかかると妻が心配そうに立ち上がった。
「あなた。」
「いってくる。」
「……お夕飯、お待ちしてますね。」
木村庄之助は下唇を噛んだ。そして優しく微笑むとゆっくり頷いた。
「いつもありがとう。」
カッ、カッ、カッ。木村庄之助が玄関を出ると、背で火打ち石を擦る音がする。振り向きはしない。目指すは多摩川。怪獣と力士、勝負の結果は火を見るよりも明らか。だが、だが。勝負から逃げる横綱など、居はしないのだ。
*
『南本牧埠頭、全隊展開完了しました。』
「そのまま待て。」
『そのまま待て、了解。』
仮設本部のテントの中で、自分の部隊が完璧に展開されていく様を見ながら陸上自衛隊の高木陸将は、諦めていた。
「高木陸将。全部隊配置完了しております。」
この有能で世間知らずの幕僚長は、本当に当方が怪獣に打撃を与えられると信じているのだろうか、と高木は思ったが尋ねることはしなかった。
信じていようといまいと、上官からそれを伝えるのは酷である。
「怪獣、えー、呼称名ゴジラを確認次第、攻撃開始。」
「作戦などは?」
幕僚長の質問に高木は吹き出しそうになったが、堪えた。
「まず空がミサイル攻撃を行うので、これによる被害が見られる場合は陸も全火力にて攻撃を行う。」
「それで。」
「被害が見られない場合、陸、海は転回して離脱する。」
「……それでよろしいのでしょうか?」
幕僚長は、ばかのように聞き返す。
「よろしいわけがない。」
わけがない、が、何ができようか。よろしいわけがないから、一応だけ攻撃するのだ。部下の命を危険にさらして、無駄だと分かっている攻撃を、遅滞にもならない攻撃を加えるのだ。
高木は、ぐっ、と喉を鳴らして怒りを飲み込むと、幕僚長に言った。これらは全て、言い訳をしながら怪獣から逃げるための作戦に過ぎないと。
「その後は、在日米軍と共同で防衛戦を構築し、これを繰り返す。」
幕僚長の顔面は蒼白である。彼の実家は都内だったなと、高木は思い出したが、どう声をかけるべきか分からずに沈黙した。
そこへ切迫した通信が飛び込んできた。
『接敵!』
「接敵!?」
「状況開始。」
「状況開始!状況開始!敵は?」
『南本牧埠頭へ上陸!』
「!?っ馬鹿なっ!!」
それは、航空監視網だけでなく、潜水艦等によるソナー網すら抜けたということを意味する。
『海、全滅!』
「転回!転回せよ!早く!全隊だ!全自、転回しろ!」
高木は叫んでいた。権限も何もなく、ただ逃げろと叫んでいた。
『空、被害甚大。陸、半数と通信途絶しました!』
『空、損耗9割、撤退成功しました。陸、通信なし。』
『陸…通信有りません。』
『陸、20名生存確認。戦車全車損壊。』
『陸、12名生存確認。装甲車2台帰隊しました。』
『陸、生存者確認できず……ーー
通信を聞きながら、完全に自失していた高木が我に返ったのは、東部方面隊第1師団の、ほぼ全てが無くなったと幕僚長に言われたときだった。
我を取り戻した高木陸将は、今すぐに小銃を取ってゴジラに突撃したい気分になった。もしくは拳銃を自らのこめかみへ当てたい気分に。
「退きましょう。」
そう、幕僚長は高木の目ではなく、机のカドの辺りを見つめながら、いった。高木もその辺りを見た。何もなかった。
「退こう。」
高木は本部を畳む前に通信を入れた。
「ゴジラに此の方の攻撃は効力あらず。また、監視網の全てが意味をなさず。陸上自衛隊東部方面隊第1師団壊滅せり。」
情けなさに、薄ら笑いが出た。
「あとは何が出来ますか。」
幕僚長が尋ねる。
「逃げることだ。」
高木はコートも着ずに車に乗り込んだ。遥か、遥か遠方から、万雷の轟きがした。ゴジラの声だ。
高木はそれに悪態すら付けず、何もない空を呆然と見上げていた。
*
「勝てば極楽 負ければ地獄よぉ~~」
横浜、山の中、海を見下ろす峠道。誰その歌が聞こえる。それは原付きに乗った奇妙な男の歌声だった。
「とかく浮世は罪なとこ~~」
男が峠道から見下ろすのは南本牧埠頭。そこはちょうどさっき、ゴジラが通過した場所である。
「負けちゃならぬと思えども~俺もやっぱり人の子か~~」
男のメガネは左のレンズだけが黒。さらに奇妙なことに、原付きの荷台には桶とひしゃくが括りつけられていた。
「流れ流れる浮雲に~行方定めぬ旅空で~~」
峠道より見下ろす南本牧埠頭は、未だに赤い火が燃え、まさしく戦場の有様。自衛隊の奮戦むなしく、見事な押し出し。電車道の跡だ。
「遠い故郷偲ぶたび~熱い涙がついほろり~~」
男はアクセルを捻り、ドンドンとスピードを増す。峠道を右へ、左へ、まだ速度が上がる。
「と言うて戻れる訳じゃなし~ここが我慢のしどころよぉ~~」
男は思った、ゴジラより先に着かなくてはならない。スピードを上げた。
「どんと大地を踏み締めて~一押し二押し三に押し~~」
峠道を出ると、男の片目には燃える市街が見えた。
「押せば目も出るよぉ~~ほほい、花も咲くぅ~~~~~」
黒い煙を上げるスーパー、真っ赤な火を吹き出すトラック。遥か遠くから何でもかんでもの燃える臭いがする。埃と土と、硝煙と脂肪と全部の燃える臭いがする。
原付きは波打つアスファルトに蛇行しながらも、なお速度を上げる。
「はぁ、どすこい、どすこい!」
全部が燃える。全部が消える。
男の耳に怪獣のいななきが聞こえた。それは悲鳴のようだった。
*
大車輪と横綱が閑散とした多摩川河川敷へ着いたのは、まだ日の出てるころであった。
「お、丁度いいな。なぁ?」
巨木を見つけた横綱はそう言って、てっぽうを始める。横綱はいつもどおりの準備をした。ないものだらけだが、大車輪は精一杯、助力したつもりだ。
ブブブブブ…
上空を報道ヘリが飛んだ。大車輪は見上げ、手を振った。
「おい、恥ずかしいだろ。」
「すんません。」
注意しながら、横綱も手を振った。大車輪は吹き出した。
「なんすかもう。」
横綱も、にやっと笑うと、次に真顔になって言った。
「よし、綱出せ。付けるぞ。」
大車輪は車から、綱と化粧まわしを出した。横綱の正装。頂の力人の証。土俵も何もないけれど、せめて横綱らしくしようという、意地だった。そこには横綱が居た。
大車輪は、ありがとうございます、と言った。何にかは分からなかった。横綱はそれに鷹揚に頷くと、『前』を向いた。怪獣が来ると思われる方を。
日が傾きはじめ、冷えた風が河川敷を吹き抜ける。人っ子一人居ない。当然のことだ。間もなく怪獣が来るのだから。
そこで大車輪は目を疑った。
「あれ……。」
土手を総紫の老人が歩いてくるのだ。それは着物に袴に烏帽子に軍配まで備え、行司に見えた。
手には膳を持っている。勝栗、昆布、スルメ、榧。間違いない。
「木村、庄之助……。」
大車輪は反射的に深々と頭を下げた。
木村庄之助はその横を通り過ぎると、地面を掘り、縁起物を埋めはじめた。これより多摩川河川敷は、土俵となる。
木村庄之助が縁起物を埋めて祝詞を終えると、日は完全に沈んでいた。横綱は、「太刀」とだけ言った。大車輪は車へ行くと、化粧まわしを付け太刀を右手に掲げて戻ってきた。
木村庄之助はそれを見て、中腰になる。
横綱の脇に太刀持ちが侍ると、ぐっと蹲踞した横綱が柏手を打った。
パァン!
揉み手してもう一つ。
パァン!
手を上に向けて離すと、両手を大きく開く。
そして立ち上がると、また柏手を打った。
パァン!
揉み手してもう一つ。
パァン!
手を上へ向け、開く。
開いた右手は大きく開き掲げられ、左手は肘を開いて脇腹に添えられる。
たっぷりと溜めてから右手が返った。右手を下ろすと、代わりに左手が掲げられる。
右足が上がる。足を上げた状態でまた溜めた。
ドン。
深く、腰を割って足が振り下ろされた。
そのまま大きく抱えるように両手を広げ、せり上がる。
ズッ、ズッ、ズッ、ズズズ…
左手が掲げられ、右足が上がり、また振り下ろされる。
ドン。
今度は右手が掲げられ、左足が。
ドン。
そして横綱は、また蹲踞となって、柏手を打った。
パァン!
揉み手をして、もう一つ。
パァン!
上を向けて開いた手が、そのまま左右に広がる。
横綱土俵入り。誰もが息を呑む、完璧な所作であった。
そして同時に、悲鳴のような轟きが多摩川の河川敷に響いた。そして、僅かな揺れも。怪獣が近づきつつある。
来る、と横綱には分かった。もはや時間は幾ばくもないことも。
一つ息を吐いて、横綱が汗をふこうと振り返ると、ここにいないはずの親方がいた。
「おう、頭からいけ。」
差し出されたのは力水だ。
「うす。」
横綱は受け取り、口を濯ぐ。親方を見た。左レンズが黒になっているメガネの奥の目は、うかがい知れない。
「芹沢親方。」
「おう。」
「ありがとうございます。」
横綱は礼を言った。何にであろうか。
昔、親方に聞かれたことがある。「海か、山か」自分の四股名についてだった。孤児の出で故郷を知らぬ若者だった横綱は、両方分からないと言った。
「ならば空はどうか」と親方は聞いたが、親の愛を知らぬ横綱は、空に何かを思うこともないと答えた。
憧れも無かった。強い名も立派な名も欲しくなかった。ただ事実を答えた。「自分は、息のある限り戦います。」今思えば、親方はその若者のことを物狂いだと思ったのだろう。
そうして与えられた名は、醜名だった。何も持たない人間に相応しい、何でもない名前。横綱は自分に相応しい名前だと思った。だが、それ故に好きになれなかった、四股名。
揺れが強くなる。大気を震わせるのは、音として認識できないほどの足音。
山が見える。真っ黒の山だ。海が見える。全てを飲み込む黒の海だ。空が見える。視界を覆い尽くすほどの闇夜だ。
横綱の視界に映る怪獣は、大きく、絶望的な、黒い、死だった。
木村庄之助は呼び出した。
「にぃ~~~~~しぃ~~~~~~、呉爾羅~~~~~~~~、ごぉ~~~~じ~~~~~いぃぃ、らぁぁぁ~~~~~~~~~。」
呉爾羅。呉爾羅(ごじら)か。強そうな名前だ。大自然そのもの、神に相応しい名だ。そう横綱は思った。そして、それに対する自分の四股名に、初めて感謝した。
木村庄之助はさらに声を張り上げた。
「東ぃ~~~~~~、オキシジェン・デストロイヤァ~~~~ァ~~~~、オキシィ~~~~ジェン・デストロォ~~ォォ~~~イヤァ~~~~~。」
呉爾羅は、横綱の眼前だ。いや、まだ河川敷にすら入っていないが、その威容。歩速。もうすぐだ。
その時、呉爾羅が止まった。
横綱は、両手をついた。
そしてゴジラとオキシジェン・デストロイヤーの立合いが
ーー合った。
【終】
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