発狂頭巾 S5 24話「発狂頭巾、正気の沙汰にて。」
江戸の八百八町といえど全てが全て綺麗な場所ではない。そして江戸の住人といえど全員が全員、善人ではない。
寂れた長屋もあれば、悪人も居る。正気の者もいれば、また狂った者も。
そんな江戸の裏の寂れた町を、留吉なる男がひた走っている。
「旦那!吉貝の旦那!」
うらぶれた長屋に留吉の声が響く。返事も待たずに留吉は酷く汚れた引き戸を開けた。
「騒がしいぞ、留吉。庭の河童も逃げてしもうたわい。」
のっそりと布団から起き上がったのは吉貝打目右衛門。年齢も経歴も不詳の気狂いである。
彼のことを留吉は旦那と呼ぶが、吉貝は独り身であるし何か旦那と呼ばれるような職に今現在就いているわけではない。
更に言えば長屋に庭があるわけもなし、河童なども東スポ紙面以外に存在し得ない。
全て吉貝の妄想である。
しかし留吉がこの狂人を旦那と呼ぶには訳がある。
「団之上の野郎の尻尾を掴んだんですよ!」
松永団之上。何かと吉貝が目の敵にしている江戸南町の奉行である。名奉行と評判で人当たりもよく、100人に聞けば100人が大層な善人だという男だ。
しかし吉貝に言わせれば「紛れもない悪人。地獄より抜け出た咎人の方がまだ善良であろう、大悪人。」とのことだ。留吉も最初こそ何時もの被害妄想であると考えていたが、吉貝に言われるがまま身辺を洗ううち、どうもキナ臭い。
「この黄色の招き猫の根付を見てください。これが奴らの仲間の証でさ。」
そうして留吉と吉貝が洗い出したのは南町奉行を頂点とする腐敗したシステムだった。印を持たせたヤクザ者には温情に見せかけた便宜を図り、対抗するヤクザは厳しく裁く。そうすれば自分の支配するヤクザ以外は居なくなるという寸法である。
「で、で、でかしたぞ留吉。お玉もこれでうかばれるだろう。う、う…」
「旦那、薬飲んでくだせぇ、源内さんの虹色のやつですよ。」
お玉なる因縁は留吉も知らない。前はお妙だった。
「お狂と源内を呼べ。今夜打ち合わせを行い、明日、討ち入りをする。」
「す、すぐにですかい!?」
「兵は拙速を尊ぶ。孔子…そうだ。孔子の言葉だ。」
留吉は機転が利いても学はない。吉貝の言うことが正しいのかどうか分からない事も多い。だが吉貝は気は狂っても、その正義だけは狂っていないことだけ留吉は分かっていればいいと思っている。
そして留吉の経験では、吉貝の狂気が深ければ深いほど、悪は大きくなる。
「すぐに呼んできまさ!」
留吉がまた寂れた町へ飛び出す。真っ黒な煤がその背を流れる風に混じっていた。
「旦那ぁ。討ち入りですって?」
「ガガピーピロピロピロ。」
「お狂、源内。来てくれたか。」
お狂は夜鷹であり、梅毒の影響で日の半分は正気を失いセックス漬けになる。だが源内の施した灼熱治療により正気の時間を伸ばし、その文殊に勝ると言われた知性を世直しに貸してくれるのだ。
同じく源内も投獄され死亡した影響から体の半分以上がエレキテルからくり化しており、特殊な符号での会話が余儀なくされている。
「松永団之上を打ち取る。とうとう証拠が見つかったのだ。」
「ピーピロピロピロ!」
「源内さんの言う通りよ、証拠なんて必要だった?」
くっ、と噛み殺した声を出すと、がくりと吉貝は項垂れた。そして、うううう、と呻くと語りだした。
「奴こそ、お妙の仇なのだ。」
「旦那、朝はお玉でしたよ。」
「そう、お玉の仇だ。」
吉貝はこうなると、気が済むまでずっと語り続ける。ただお狂はそんな吉貝の話を嫌がること無く最後まで聞いてやる優しい女であり、源内は舶来のふろいと精神医学なる本を読んでから吉貝の病状に興味津々である。
「儂が居たのは南町奉行所だった。そこで同期だったのが松永の奴だったのだ。奴と俺は同じぐらい優秀で…」
留吉はまた何時まで続くとも知れぬ、吉貝の妄想を聞きながら朝を迎えるのだった。
吉貝は押しつぶされた万年床で目を覚ました。今日が討ち入りの朝である。
「む…留吉、とめき…」
吉貝は自分の目を疑った。発狂してより疑うことのなかった自らの目を、疑ったのだ。
吉貝が住んでいた長屋は、黒焦げになっていた。まるで随分前に火事で丸焼けになったかのように。こんな所で寝起きするものがどこにおるのか、と吉貝は自ら思う。
はたと横を見ると、黒焦げの人型。誰かの屍である。それは丁度留吉ぐらいの大きさで、留吉の愛用していた煙管とよく似た…
「うおぁおおぁぁぁ!!!!」
吉貝はそれが何か、分かってしまう前に、焼け跡の長屋を転がりでた。ここは、確か、冬に燃えたのだ。団之上の策略によって。そして私や留吉やお狂は難を逃れて、長屋が新しく立って、そこに…
なら何故汚れた長屋だった?新しい長屋なのに?汚れた長屋を新しく建てたのか?そして燃えた?昨日、私だけを残して?
「ぁぁぁ…」
吉貝が道でしゃがみこんでいると、見慣れた女が心配そうに自分を見ていた。いつも残り物をくれる小料理屋の女将だ。
「お、女将、燃えたのだ、家が…何時だ…儂は何時から…」
「吉貝の旦那、正気かい?正気なんだね!」
「正気?狂ったのか?これが正気か?」
「旦那は冬に長屋が燃えてからずっと、普段にもまして可笑しくなってたんだよ!留吉が…お狂ちゃんが死んじまってから、ずっとそうさ!一人でうわ言しながら焼けた長屋で寝泊まりしてんだから!心配してたんだよ!」
「げ、源内殿は!?」
「源内さんは、牢屋で、死んじまったじゃないですか…」
女将は心底、気の毒そうに言う。
「う、嘘だ!これが幻だ!これは嘘だ!」
「旦那…」
女将はもう何も言わなかった。女将も気づいていたのだ。狂ったほうがはるかにマシな身の上の吉貝が正気に戻った所で、何になるというのか。
吉貝は差し出された大根の煮物を泣きながら食べると、「御免」とだけ言い、歩き出したのだった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。
真っ赤に狂おしいほどに染まった空に、提狂寺の調子外れの鐘の音が煩く響く。吉貝は背後に気配を感じ振り向いた。いつものように外道禅師が岩の上で胡座をかいてい座っている。
外道禅師は大層な禅の高僧であるが、狂っている。
生類憐れみの令の時は誤って犬を殺した町人を庇った吉貝に「犬の姿でお白州へ行くように」との入れ知恵をしたり、初物禁制の折には父に初物を食べさせたい男に「初物を食べれば寿命が伸びるという。なればこれは薬である。」との言い訳を授けたり。
その禅師は喝破する。
「狂ったか吉貝!」
「正気にてございます。」
外道禅師は笑い出した。
「狂いは正気と言い、正気は狂いと言う。釈迦の世よりそう伝わっておるわ。」
「ならば、狂いとうございます。」
「狂え、狂え。」
禅師は更に高らかに笑う。
「団之上を殺生せよ。」
「禅師!証も無しに!」
外道は更に更に高らかに笑う。もはや侮蔑である。
「狂いがか?証を?愉快な!」
「全て儂めの狂い妄想の類にてございます!お妙もお玉も!留吉もお狂も!源内殿も!」
外道禅師は笑うのを止めた。
「全ては真よ。」
吉貝が目を戻すと、岩の上にはしゃれこうべがひとつあるだけであった。
吉貝は暗い暗い江戸を歩く。もはや後には戻れぬ。正気に戻ったとて、狂気のままだとて、今のままでは収まらない。
どんどん、と木戸を叩く。
「ここは松永様のお屋敷か?」
「へぇ。どちらさんで?」
ひゅ、と風が鳴ると、戸の向こうの下男の胸には赤い染みができた。
「うぇ?」
末期の声はそのような感じだった。
吉貝の顔には、ボロ布が乱雑に巻き付けられている。今、彼は狂気頭巾となり、松永団之上を討ち取らんと討ち入りをするのだ。
木戸を貫いた刀を動かし、閂を外す。そして戸をくぐった後、閂をして金具を打ち付けた。
恐怖に固まる家人たちに狂気頭巾は目的を告げる。
「根切にて候。」
「ア…」
ピュピュ、と発狂頭巾が二度刀を返すと、叫び声すら上げずに家人は倒れた。喉を割かれ、うめき声すら上げれず芋虫のように藻掻いている。
発狂頭巾は玄関より松永邸へ入る。
玄関には用心棒が二人。使い手だ。
「いょぅぐふぃぬすがぬぃ」
発狂頭巾が奇声を発する。それは人間には到底発音できぬ言葉であり、聞いただけで怖気がするような、蛮人の呪いが如き祝詞である。一人の用心棒は目の焦点が合わなくなり、もう一人は耐えきれず打ち込んだ。
またたく間に一人の腕は落ち、一人の首が落ちた。
襖を開けると四、五人程が固まっている。これらも松永に連なる者であろうか。狂気頭巾は何も言わず、女二人と男三人を屍に変える。
忍が出る。超感覚で察知した狂気頭巾は脇差を天井に投げつけた。しかし物音は一切しない。
だが狂気頭巾が脇差を抜くと、天井からは雨漏りのように血が流れ落ちる。
見つけては斬る。斬っては見つける。
狂気頭巾は焦ってはいない。松永は必ずやこの屋敷にいる。この屋敷の戸は全て外から金具で閉じてある。全員殺せば、そこに松永が混ざっているのだ。
襖を開く。
「何奴だ。」
床の間の前、男が刀を手に座っている。こいつだ。見間違うはずがない。こいつが。
「松永団之上だな。」
「如何にも。」
「ならば理由は分かるはずだ。」
「分からぬ。南町奉行をなんとする。」
「殺す。」
「ちぃえあ!」
松永は蹲踞の姿勢から一息に抜刀し、発狂頭巾を斬りつける。
並の腕ではない、用心棒より遥か上の腕前。しかし発狂頭巾は抜き打ちを受け流し、柄で松永の顔を殴る。如何に達人であろうと狂人の前に正統の剣術は無力である。
「う、ぐぐ。待て、本当に何の用だ。」
松永は命乞いをするわけでもなく只問うてくる。発狂頭巾は、その言葉を聞くまいと、呻くが、なお松永は語りかける。
「私に何の咎がある、何の咎の証があるのだ。」
発狂頭巾は、語り始める。不明瞭な声で。
「貴様は、松永、団之上。儂の同僚であった男よ。」
「同僚?」
「儂の仕事を妬むうち、儂の女房の、妙に横恋慕をするうち、貴様の欲が燃え上がり、儂を、妙を、まだみっつのお玉を、焼き殺したるのだ。」
松永の顔が疑問から一瞬の恐怖を通り過ぎ、喜びの顔に変わる。
「吉貝!!吉貝か!生きておったのか!!」
「そうだ、儂は生き残った、おめおめと、貴様に、貴様を頼ろうと思ったことすらある…おぞましいが…」
「何を言う!頼れば良かったのだ!!」
「否、否、貴様の行いは全て分かっている。十年前も冬の付け火も、腐敗したる仕組みも全て。」
松永団之上は明らかに馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「何を言う、付け火など無い。お前の煙管の不始末だ。またやったのか?お前は、また誰かを焼き殺したのか?」
「違う!違う!全てお前だ!お前のせいだ!」
「何が違うか。証もないのに誰のせいだと捲し立て、悪くもないものを斬り殺し、屍に変えているのはどっちだ?」
発狂頭巾は苦しみだす。刀を杖にして身体を悶える。
「お前は昔からそうだった、妬む?横恋慕?被害妄想もいい加減にして欲しいものだ。お前は昔から狂いだったのだ。」
「儂は…狂いでは…狂って…」
息も絶え絶えの発狂頭巾の懐から、黄色の招き猫の根付がこぼれ落ちる。発狂頭巾は黄色い招き猫の根付を、見た。
「それは…!」
松永団之上の顔色が、一瞬濁り、また嘲りへと動く。
「それ、は何だ?根付か?気味の悪い。」
だが、発狂頭巾は見逃さなかった。いや、見逃したとしても、例え気の所為だったとしても。この根付を見た瞬間からすることは決まっている。
発狂頭巾は、吉貝打目右衛門はゆっくりと体を起こし、大上段へ構えた。
「とうとう、本当に狂うたか、吉貝!」
「狂うておるのは、」
その目は、あくまで理性的である、しかし、今夜何人殺しただろう。
「狂うておるのは!」
どこから正気だったのだろうか、どこから不確かであったのだろうか。
「狂うておるのは!!」
大上段から、刀が
【終】
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