無意味の文


 私ではありません。それはポップコーンだからです。なぜなら千葉に理由があり、そこはピーナッツの産地だからです。では、私は誰でしょうか?

 その答えを探すためにはまずマウスの下を調べる必要があり、同じように雲を千切って綿菓子のように割り箸に巻きつけて、ところで割り箸というのは日本で使われる箸の簡素な代用品であり、細長い板の中心に切れ目を入れて箸のように素手で成形できるようにした物品です。しかし昨今のマイ箸ブームによって、その姿は殆ど見られなくなり、今では水のきれいな川や山の上の方で僅かに見られるだけになりました。

 そのような背景から私というのは本当は国家という概念であり、思想であると分かります。それは泡立つような恐怖で、きっと冬の寒さより確かな無感覚を肌に残します。

 その無感覚は、綿菓子のように割り箸に巻き付けらた雲と同じように、心に少しの痛みと、甘い暖かさを残します。だから人はマウスの下に自分を探し求め、ピーナッツの片割れにこの世の真理を見出そうとします。

 それはとても夜が暗いことで、その夜は鋒を鋭くして二の腕を切り裂いて、飛び散った血が星星を覆い隠してランナウェイ走り去っていくよ。

 明けない夜はないホーミタイ、消えないで朝日の女神、チルする街に消えていくトゥナイ。それは割り箸が消えた山に現れた。

 割り箸というのはそもそも、人類が生まれる数万年前から存在していた。今生きている人類は割り箸のことを、きっと自分たちが作った便利な道具であると勘違いしているが、それは全くの誤解であり、割り箸というものはキノコの一種である。

 この奇妙なキノコが生まれたのは氷河期の終わりの頃、ちょうどマンモスが世界を制覇し、偉大なるマンモス文明を生み出して、信用創造による経済システムが極まり、信用不安が発生したタイミングだった。

 マンモス達は加熱した経済が地球の温暖化を促進し、むしろ経済の不安となることを突き止めてしまった。それによって市場は瞬く間に冷却され、マンモスバブルは崩壊、あえなくマンモス文明も同じ道を辿り、同時期にユーラシア大陸に渡ってきた人類に狩猟の対象にされたことも重なって絶滅の道を歩むことになる。
 
 そんな険しい時代に割り箸は産まれた。割り箸はそんな時代を必死に生きた。それを笑う事はできない。きっと私達も同じように、先の見えない人生を必死に生きているのだから。

 だからこそ割り箸はピーナッツに出会うことになる。千葉の名産はピーナッツであるが、これは千葉県がピーナッツを生産しているのではなく、ピーナッツを最も生産している場所が千葉県となることを意味している。

 それは同時に、割り箸にも言える。つまりは恐竜時代まで遡っても、人間にチャンスはなく、鳥の羽根の付け根にある部分が一番美味しいのだ。これを手羽元という。

 そんなわけであるから、大マンモス文明の偉大なる王、ソンボル・サンバーも今ではすっかりと老け込んで、上野動物園で草を食べながら人類に警鐘を鳴らしているわけである。

【終】

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