おじいちゃんと戦争の話

「テレビの明かりを見てるとね、戦争を思い出すんだよ」

仕事で飯田橋の川沿いを歩いていたら、おじいちゃんの言葉を思い出した。

たぶんテレビの明かりが野火か何かに見えたのだろう。
そのとき既に90歳を超えていたおじいちゃんは、以前より暗い言葉を口にするようになっていた。
お母さんは「もうちょっとボケているのよ」と言っていたけれど、私はそんな風には思えなかった。
むしろ年を取るごとに、色濃く鮮やかに戦時中の話をするようになっていた。
飯田橋の病院にお見舞いに行く度に、何故だか私は涙が止まらなくて、いつも帰り道に川沿いを歩きながら必死に気持ちを静めていた。

おじいちゃんが戦争でボルネオに行っていたのは確か20歳前後の頃。
「もう1歳若かったら特攻隊だった」と話していた。

きっとおじいちゃんにも楽しい思い出はたくさんあったと思う。
その後ちゃんと子供も孫も生まれた訳だし。
あと満州にいたときは楽しかったって言ってたなぁ。

でも特に年を取ってからはずっと戦争の話ばかりだった。
体調不良で倒れた兵士の水筒を上官が奪って飲み干そうとした話。
その兵士を庇ったおじいちゃんは罰としてボルネオに飛ばされた話。
広島から出航した船が何度も遭難しかけた話。
(天候が悪かったからと言っていたけれど、たぶん船の操縦を理解している人がもうあまり生き残っていなかったんだと思う。)
「真面目で優しい人ほど早く死んだ」とよく言っていた。

人生100年時代。
おじいちゃんも93歳まで生きた。
でも最後に思い出の大半を占めていたのは、若い頃の辛い経験だった。

「コロナ禍でずっと家にいなきゃいけなくて辛い」だなんて、それに比べたら甘えだよなぁ。
もちろん楽しくはないけれど、思い出を支配されてしまうほどには辛くはないから。

川沿いを一緒に歩いていた会社の同僚にぽろっとそんな話をしたら、「野火って何?」と聞かれた。
そうだよね。
私は遅くに産まれた子供だったけど、同世代のほとんどにとって戦争はもう身近な話ではない。

世情が怪しくなっている昨今。
ウクライナ情勢、台湾情勢。
日本でも安倍元首相の射殺というあまりにもショッキングな出来事が起きた。

革命や戦争が起こるとき、いつも背景には人々の生活難があるという。
今も疫病の流行や物価高、異常気象がジリジリと私たちの生活を苦しめてきて、だからか過激な意見もちらほらと見かけるようになってきたけれど、苦しみの解消法として「戦争」という手段だけは選んでは駄目だ。
その先には比較にならないほどの苦しみが待っているから。

今年で終戦77年。
こんな情勢だけれども、こんな情勢だからこそ、心から平和を祈ろう。

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