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“正解”がなくなった世界で、ただ季節は過ぎていく

「飲みに行く?」
「もうやってられないよね」
「うーん、私は遠慮しとこっかな」
「やっぱランチしよっか」
「感染者数増えてきたね」
「延期にする?」
「えー、超楽しみにしてたのに……残念」
「仕方ないじゃん」

いつから、この世界には“正解”がなくなったのだろう?

全部コロナのせいなのだと思う。
でもそれ以前からあった違和感が、可視化されただけだとも思う。

多様化が叫ばれる時代になった。
「山の上を目指そう」という明確なゴールがなくなった。
山をうまく登れない自分を責める必要はなくなった。
でも急に「草原もいいものだ」と言われると、そこまで草原に興味がない自分にも気が付いた。

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コロナとそれに伴うステイホームという行為が、何かを顕在化させたことは事実だ。
仲良しだったはずの友人や恋人と、「価値観」の合致や微妙な相違を感じるようになった。

今、外に出るか、出ないか。
今のこの世の中をどう思うか、どう捉えるか。
仕事とは何か、恋愛とは何か。
これからどう生きていきたいか。

先日、家族のグループLINEを抜けた。
母から送られてきたコロナに関する過激な動画と、それに盛り上がる姉を見ていたら急激に冷めてしまって、グループLINEはもういいかなと思ってしまったのだ。
けして絶縁とかではないけれど、微妙な価値観のズレを短い活字で議論するのが面倒臭くなったのだ。

一方で、本当に価値観が合うんだな、と思える友達も明らかになった。
3月以降、同じ友達とばかりオンライン上で話しているように思う。

「価値観が合う」という曖昧な状態を何と定義すればいいのかは難しいところだけれど、「無駄な議論が要らない」関係性と言おうか。
最近よく聞く「コロナ離婚」だとか「コロナ結婚」だとかも、結局似たような現象に基づいているのだろう。
コロナ禍で全国の自殺者数が1~2割程度減ったという一方で、今自ら命を絶つ人が存在する理由も分からなくもない。

人間関係が淡泊になったからか、今まではそんなに気に留めていなかった奇妙な違和感が、必要以上に可視化されてしまったのだと思う。
そして小さな部屋の椅子に座って、自分の気持ちと闘いながら、自分なりの“正解”を探し続ける日々だ。

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「全部コロナのせいだ」
「でも結構在宅に慣れてきちゃった」
「旅行にはいきたい」
「最早このままの生活がずっと続いてほしい」
「つらい」
「つらくない」

同じような台詞を繰り返しているうちに、秋が来て、冬が来て、1年くらいあっという間に経つのだろう。

例えいつかコロナが終息しても、薔薇色の日々がやってくるわけではない。
忘れかけていたけれど、元の生活も別に薔薇色ではなかった。
そもそも「薔薇色」とは何色なのだろう?

パソコンと向き合いながら薔薇色の色味について考える――コロナがもたらしたそんな新しい生活様式は、楽しくもあり、良い機会でもあり、そして少し憂鬱でもある。

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