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着物に『る』を足す生活を始めて、2ヶ月経った。

 唐突だが、2023年の末、着物を着る生活を始めた。

 日常生活の中で着物を着てみようと思ったきっかけは、11月の頭、北鎌倉にあるとあるお気に入りの喫茶店に行った時に出逢った二人連れのお姉さん達だ。
 お姉さん達はそのレトロな古民家カフェと鎌倉の雰囲気にとても合う、凄くモダンな柄の着物を着ていた。お店の順番待ちの時に「素敵なお着物ですね」という話になり、聞くとそれは銘仙という着物で、お姉さん達は近くのミュージアムで開かれていた銘仙展を観に来たと言う。
 お姉さん達の着こなしは、足元はショートブーツ、帯留めの代わりにブローチ、帯揚げの代わりにレースのサッシュベルト。今風にアレンジされて、凄く洒落ていて、何よりとても楽しそうに見えた。片方のお姉さんの銘仙は、おばあ様から譲り受けたのだそうだ。「おばあちゃん、こんなポップで可愛い着物着てたの!?」という驚きがきっかけで着物を着るようになり、以来ずぶずぶと沼に嵌まったのだと仰っていた。

北鎌倉の喫茶店にて

 元々、Twitter(ってもう言わないんだよね、Xなんだよね)で時々流れてくる、いわゆる「和洋折衷コーデ」には並々ならぬ興味があった。洋服と和服のいいとこどりをして、機能的に、そして現代的にお洒落に着る。素敵じゃないか。いずれはそんな風に、普段着として着物を着る生活をしてみたいなと思っていた。でも、憧れるだけで実践に移すことはなかった。
 お姉さん達にその憧れのことを話すと、「普段着物、とっても楽しいですよ! ぜひ、その内と言わず!」と力強く背中を押してくれた。
 お姉さん達に勧められて、くだんの銘仙展も見に行った。そこには、「正絹でありながら普段着」として着られていた、モダンな柄の銘仙がたくさん展示されていて、「この世にはこんな可愛い着物があったのか……」と目から鱗の経験になった。こんなの、ワンピース代わりに街中で着たら絶対にお洒落だ。

『銘仙回顧』(公社)服飾文化研究会主催
2023年11月8日~12日
まるで油絵のような素敵な銘仙

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 思い立ったが吉日と言わんばかりにすぐ実行に移す癖のあるわたしを見る度に、母はいつも「何をするにもちゃんとよく考えてからにしたら?」と言う。
 母親というものは娘のことをよくわかっているもので、彼女の言う通り、熱しやすく冷めやすいのが自分の欠点という自覚は嫌というほどあったから、一応、2週間は念入りに情報収集して熟考した上で、けれど2週間後にはわたしは初めての着物を買いに出かけた。
 ところで、わたしは七五三と成人式と大学の卒業式、そして縁日と盆踊りくらいでしか着物を着たことがない。縁日と盆踊りの浴衣に至っては、中学と高校の時に一度ずつ夏に着たきり、着付けが難しくてその後二度と袖を通すことがなかった。
 つまり全然自分で着付けなんてできない訳だ。しかも飽きっぽい性格。なのに、まずは着物を買いに行ってしまった。両親にはそういうところがそそっかしいとよく言われる。

 初めての着物を買いに行ったのは、横浜市某所の、その道の人の間で評判がいいと口コミで見つけたリサイクル着物店だ。
 恐る恐る中に入ると、元は呉服店勤めで目利きのプロであるご主人と、ご常連と思しきお姉さまがたが出迎えてくれて、「初めて着物を着ようと思っていて、普段着として着られる、洗える素材の着物が欲しいんですけど……」としどろもどろにわたしが尋ねると、親身になって一緒に着物を選んでくれた。
「これなんかどうかな? ポリエステルだよ」とご主人が出してくれたのは、ボルドー地に菊花が描かれた小紋(なお、この時はその着物が「小紋」だということも知らなかった)。一目惚れして購入し、これがわたしの着物第一号になった。

着物第一号、きっかちゃん(菊花)
袂に住み着いているのは自作のぬいぐるみ。
なにか小動物を飼ったようで楽しい。袂のある喜び。

 この古着物店に伺った時の経験から、わたしは着物を着るために、着付け教室には通わず、まずは独学で着物を着てみることに決めた。
 というのも、菊花の小紋をご主人が出してくれた時、ご常連は口を揃えて「かわいいじゃない!」「若いんだし、このくらい柄が大振りでもきっと似合うわよ」「とにかく羽織ってみたら?」と店員ばりに絶賛してくれたのだけれど、その時、ご常連のお一人が、わたしにその小紋を羽織らせて、服の上からささっと簡単に着付けてしまったのだ。
 襟を整え、背中心と裾線を合わせ、下前、上前を重ねて腰紐で締める。そして身八つ口から手を入れておはしょりを整える。これで、最低限、裄丈と身丈が合っているかがチェックできる訳だ。この間、僅か1分足らず。
 見事な手捌きだった。と同時に、「こういう風にすれば着られるのか!」というのがとてもよくわかる、本当にいいお手本だった。大事なのは、合わせるところをきちんと合わせて留めること。押さえるべきポイントを押さえれば、着物ってこんなに簡単に着られるんだ、と思った。
 せっかくいい手本を見せてもらったのだから、このご常連の手捌きを真似して、まずは自分で練習してみよう。上手くいかないところが出てきたら、その都度調べたり、そこで初めて教室に通って訊いたりすることにした。

 結果的に、その判断は今のところ正解だったと思っている。
 ご常連の手捌きを真似して着付けてみたら、子供の頃に浴衣を着るのにあんなに四苦八苦したのが嘘みたいに、思ったよりもあっさりと形になった。初めの内はそりゃあ、おはしょりはもこもこしていたし、衣紋はどっかに消滅したし、背中も皺だらけだったけど、それらも着付けの本や動画を見て真似したら、割と簡単に解決できて、3回も着れば家の中で着る分には何ら問題ないレベルになった。
 冠婚葬祭のようなきちんとした場に着ていくのであればお教室も必要かも知れないけれど、普段着として着るのであれば、まずはとにかく実際に着て生活してみる方が遥かに実践的だし、いい練習になった。
 きちんとした着付けには、綺麗なだけではなく、崩れにくいという最大の利点がある。ちゃんと着付けられていないと、着物はいとも容易く崩れていく。だからこそ、「上手く着られない」で崩れてくると、「じゃあどうやったら綺麗に着られるのか」を自分で考えるようになったし、それを勉強して解決すると、どんどん着付けのコツを覚えられた。
 おはしょりはもこもこしなくなったし、後から買った身丈の長い着物も調整して着られるようになったし、衣紋も抜けるようになったし、背中の皺も取れるようになった。
 まぁでも、そういうものだよなぁ、と今は思う。それこそ銘仙を着ていた大正や昭和の頃の人達が、皆が皆、着付け教室に通っていたとは思えない。こんな風に誰かに教わって、毎日着ている内に自然と着られるようになったんだろう。
 着物も所詮、服は服。洋服と一緒。TPOや季節感も考えつつ、だけど気負わずいつでも好きなように着ていいし、着れば着ただけ、上手に着られるようになって、センスも磨かれるものなのだ、多分。
 もちろん、お教室に通えば、その辺りのコツをきっと手取り足取り教えてくれて、もっと早く上達できるんだと思う。でも、着付け教室は義務教育じゃないし、目的は着物を着ることであって、それが達成できる手段はこの世にいっぱいあるのだ。

初めて自分で着付けてみた時の記録。
見よ、このおはしょりのもっさり具合を。

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 着物を着て家の中で生活してみると、色々問題が出てくるし、発見がある。
 動作をやさしく小さくしないと、どんなにちゃんと着付けていても崩れてしまうから、身のこなしを覚えた。「どうやってトイレに行くんだろ?」とある時突然あたふたして、裾を捲って帯に留めてトイレに行く方法を覚えた。着物のままで料理や掃除をするために、たすき掛けを覚えた。
 その内、着物というのは崩れないように綺麗に着付けることも大事だけれど、「崩れてきたらささっと手早く直せばいいのだ」ということもわかってきた。衣紋が消えてきたら背中心を引っ張ればいい。襟が崩れてきたら身八つ口から手を入れて襟を引けばいい。裾が落ちてきたら引っ張り上げておはしょりの中の腰紐にからげて留め直せばいい。帯が落ちてきたら帯の下側を持ってぐっと上げればいい。
 畳み方、お手入れの仕方、保管の仕方。それも全部、調べて順番に覚えた。中に襦袢やそれに代わるものを着ていれば、着物自体が肌に触れて汚れることはほぼないから、そんなに頻繁に洗濯やクリーニングをしなくても、ブラッシングをして陰干しする(これも、普通のハンガーと洗濯ばさみで出来る)くらいのお手入れで、汗をかく季節でなければワンシーズンは着通せることもわかってきた。
 そうやって何度も着ていると、着物はちゃんとわたしの普段着になってくれた。着物で家事も問題なくできるようになったし、自然と重ね着になるから冬場は温かくて、日中は暖房要らずになった(いつもの冬はファンヒーターの前でうずくまっていたのに)。
 帯を締めると背筋が伸びて、姿勢がよくなる。ご飯も無駄に食べ過ぎず、腹八分目になる。せっかく着付けた着物がもったいないから、無意味にゴロ寝をすることがなくなって、休日の生活にメリハリが出た。お気に入りの可愛い着物を着ていると、ちょっと特別なことがしたくなって、よくお茶やコーヒーを淹れるようになった。プチ贅沢だ。

 一番の気づきは、「服を着る」という行為を、普段の自分がいかにいい加減に行っているかということだ。
 丁寧に着付けなければ、着物は綺麗に見えないし、着崩れやすい。その分、丁寧に着付けてあげれば、洋服にも負けず劣らず快適に着られる。「着る」という行為に、これほどまでに真摯に向き合わせてくれる服もないと思う。
 その点、やっぱり洋服って凄い。時間のない朝でも、羽織って、ボタンを留めて、ほどほどに皺を整えてあげれば、簡単にそこそこ形になるし、何よりそれだけ適当に着ても動きやすくて着崩れないのだから、本当によく出来ている。
 着物を着るようになって、元々持っていた洋服のことも大事に思えるようになった。何より、着慣れた洋服も、着物と合わせることで、見たことのなかった全く別の表情を見せてくれる。

 * * *

 最初の着物の1枚は即断してしまったわたしだけれど、他の小物類を買うのは慎重にした。
 まず、襦袢を買わなかった。半衿で遊べる襦袢は可愛いけれど、あれは着物を2回着るようなもので、初心者にはハードルが高いと思ったからだ。元々、和洋折衷コーデに憧れがあったこともあるし、襦袢の代わりにブラウスを着て、裾除けの代わりにシフォンのプリーツスカートを穿いて、「その上にまずはとにかく1枚だけ着物を着るのだ」という目標を設定し、そうしてハードルを下げることで、着物を着るのが嫌になってしまわないようにした。

 帯結びも、まずはコルセットベルトから始めた。ボタンを留めるだけだから簡単だ。着付けに慣れてきたところで、今度は辻堂の古着物屋さんに行って、やっとそこで半幅帯を買った。
 長尺の半幅を使った初めての帯結びは、そこのおかみさんが、三重仮紐を使ってぐるぐると巻くだけで出来る簡単でかわいい結び方を教えてくれた。おかみさんの手つきをよく観察して、帯を締める時のコツも勉強させてもらった。帯は前や斜め上に引っ張り上げるのではなくて、水平にすーっと引くと、それだけでしっかりとよく締まる。
 他にどんな結び方があるのかなと思って調べたら、「帯を結ばない帯結び」というものがあるのを知った。ayaaya先生のご著書だ。喜んで買って、家にあるベルトや、半幅帯と一緒に1本だけ購入した帯締めを使って、色んな帯結びを練習した。

 幸いなことに、腰紐やコーリンベルト、伊達締めなんかの基本的な着付け道具は、成人式の振袖の時に使ったものを母が大事に取っておいてくれていたから、あれこれ小物を買わなくても着物生活を始められた。辻堂の古着物屋のおかみさんが教えてくれた三重仮紐ですら家にあった。
 でも、着付けクリップは買わなかった。別になくても着られたし、どうしても留めておきたい場所が出てきたら洗濯ばさみで留めた。
 和装ブラは、しまむらのらくうすシェイプで様子を見ることにした。もっと高機能なものもあるんだろうけれど、今のところはこれで充分だし、コストパフォーマンスが凄くいいから満足だ。

 ところで、最初に買った着物が菊花だったことで、着物の柄には季節があるのだということに後から気づいた。菊は秋から冬にかけて咲く花だから、「ひょっとして春や初夏にこの着物を着たら変なんじゃないか? 着物警察に捕まるのでは?」と思ったのだ。調べてみたらやっぱりそうだった。
 季節に合った装いがしたいから、図書館で歳時記を借りて、日本の伝統的な四季観について勉強した。おかげで2着目と3着目には、長い期間着られる、四季草花と唐花の通年柄の着物を選ぶことができた。
 着物の種類や作りの違い、生地の素材の特徴、織り方の種類も覚えた。夏になったら絽や紗の単衣を着ればいいのか……。見た目が涼しそうで可愛い。
 覚えたことを実生活に活かせるのは、楽しい。季節ごとにどんな装いをしようか、夢が膨らむ。

 かくしてゼロから始める新しい挑戦は、人に工夫することや学ぶことを覚えさせる。

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 職場には着ていけないから、着物を着るのは週末だけになる。
 すると平日でも着物成分を摂取したくなるけど、さすがに夜9時過ぎから着付けをする気にはなれない。
 そんな時は、500円で買ったウールの羽織を洋服の上に羽織ってしまう。あったかいし可愛いし、ほくほくする。
 初めて着物を着て外に出かけた時は、まだ着付けに不慣れで着崩れが心配だったから、多少崩れてもリカバーしやすいように、スカートと合わせて袴風の着方にした。図書館に行ったら、エレベーターの中でご年配に褒められた。「俺なんか、浴衣の一つですら満足に着られないのに、自分で着られるなんて大したもんだなぁ」と。
 買った着物が悉く古典柄の小紋なものだから、玄関でチャイムが鳴った時に着物姿で出ていくと、さすがに宅急便屋のお兄さんやご近所のおばさまには驚かれる。洋服と組み合わせて着ているから余計にびっくりされる。こうやって家着にするなら、もっとシンプルな色無地や紬を買って、ちゃんと襦袢も買って和装らしく着た方がいいかもなぁ……と思いつつある。
 そんな風に、日常の中に色んな形で着物を取り入れていって、また新たな気づきを得る。

 今は兵児帯が欲しい。
 調べていて、生地を買ってくればミシンで縫って自作できることを知った。着物は小物も含めて直線の構造だから、作るのは簡単そうだ。次に買う着物は夏用の絽と決めているから、それに合うレース生地を買って、作ってみようと思っている。
 もう少し暖かくなってお出かけしやすくなったら、いよいよ一回くらいは、呉服屋さんのワンコイン教室に通ってみたい。自分である程度着られるようになってから行く教室では、やっぱりまた、色んな発見があるだろう。

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 手に入れた着物や小物達を収納するために、いつまでもケチケチ着ていたボロけた部屋着を「今までありがとう」と言って断捨離した。
 わたしが和装に手を出し始めたと知ったお友達が、お香と匂い袋をプレゼントしてくれた。
 2着目に買った唐花文様の小紋には、中古だから少しアクが出ていて、それを持って近所のクリーニング屋さんに相談しに行った。「これ、ポリエステルなんですか? お手入れもしやすいし、柄も素敵ですね」と若奥さんが褒めてくれた。アクは綺麗さっぱり落ちた。個人経営のちっちゃなクリーニング屋さんだけれど、先代のご主人の頃から物凄く腕が確かなのだ。これからもちょくちょくお願いをしに行って応援したい。いずれは正絹の着物も着てみたいから、手に入れたらお手入れの仕方を相談しに行こう。
 QOLが毎日ちょっとずつ上がっていく。

まだまだ練習中。

 辻堂の古着物屋のおかみさんが、いたずらっぽく微笑みながら言っていた言葉が忘れられない。
 おかみさんは、ブラウスとスカートを組み合わせて着物を着ているわたしにこう言った。

そんな風にして、着物は日常からどんどん着ていいのよ。
『る』を足せばいいの。
『着物』に『る』を足して、『着る物』。
着物は、着る物なのよ。


 北鎌倉の喫茶店で出逢った銘仙のお姉さん達、お元気ですか。
 横浜の古着物屋のご主人とご常連、本当にありがとう。
 辻堂の古着物屋のおかみさん、至言です。

 着物に『る』を足す生活をして、今、すごく楽しいです。

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