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2話 母の家の話

 ははの いえの おはなし

 父の家と比べると、母の家はそれほど古くなかったようだ。
 母の父私にとっての祖父が二代目だった。
 いくつかの田んぼを持っていたが、農業のみをしていたのか、他の職業もしていたのかは全く分からない。

 母の父祖父は戦争に通信兵として行っていた。
 けれども、戦争の事を話さなかった。聞いたとしても、
「トラック島で畑を耕していた。平和だった」としか答えなかった。
 戦争から帰って来た祖父の耳はとても聞こえづらくなっていた。
 その後も職場で大きな事故にあって、生死の境をさまよったらしい。
 顔もつぶれて、ひどいありさまだったと、母が話していた。
 私の知る限り、祖父の顔は普通の老人だった。
 禿げた老人だった。
 祖父のお葬式の時に知ったのだが、髪が寂しかったのは若いころ30代からだったらしい。
 祖母が「見合い写真と大違い」と常々言っていたのだとか。

 母の母祖母の名前は「ひ」と「し」を間違えられて、届けられたらしい。
 それをずっと言っていた。昔は文字を書けなかったからだとも言っていた。
 祖母の親の世代の識字率はどれくらいだったのか、本当に書けなかったのか興味がある。

 祖母は小学校卒業後に品川へ奉公へ行った。
 戦火がひどくなり、地元に戻ってきたらしい。
 ここは田舎で空襲にあうことはなかったけれど、遠く赤く燃え上がる街は見えたと言っていた。
 夜の戦火は鮮やかに空に映し出されたのかもしれない。
 その後、祖父とお見合い結婚した。

 祖母の足首は普通の人のように真っすぐではなく、曲がっていた。
 畑仕事をしていて捻ったらしいが、当時は「医者なんか行かなくてもいい」と言われ、放置したのだ。
 ひどい捻挫か骨折だったのか分からないが、とにかく自力では治らない怪我けがだった。
 放置した結果、祖母の足は曲がってしまった。
 昔は医者が身近な存在ではなかった事もあるだろう。
 私が知る限り、祖母の足は曲がったままでゆっくりとしか歩けなかった。

 そんな祖父母の次女として母は生まれた。
 母の上には年の離れた兄と姉がいた。

 母が生まれた時、祖母は近所に「こんなのが生まれた」と見せに回ったらしい。
 母はそれを「要らない子を見せに回った」と受け取っているが、事実かどうかは分からない。
 小さかった母は母の姉に背負われて、小学校に行っていたそうだ。
 母が泣くと「うるさい帰れ」と先生に言われて母の姉伯母は家に帰っていた。
 そうやって母の姉は学校をサボッていたらしい。勉強が嫌いだったのでちょうどよかったのだとか。
 本当かどうかわからないが、今は通用しない。

 母の両親は、昔ながらの人だった。
 ちゃぶ台をひっくり返して「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ!!」なんて事が日常茶飯事だったそうだ。
 祖父の言葉に祖母は黙ってはいない人だったらしく、過激なけんかが繰り広げられていた。
 そんなある日、祖父が怒りに任せてヤカンを放り投げた。
 ヤカンの中には熱湯が入っていた。
 逃げそびれていた母にそれが降りかかった。
 そうして、母は大火傷おおやけどを負った。さすがにその時は病院に行ったと言っていた。
 母のやけどは簡単には治らなかった。
 祖母と一緒に湯治とうじにも行ったらしい……が、長湯の祖母と一緒に入っていたら、母はのぼせたらしい。
 結局、火傷やけどはケロイドとして母の腕に今も残っている。

 そんな感じで、母の家の話は終わり。






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