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SNSの力

最近一つの大きな決断をした

それは運用しているtwitterアカウントの削除

思えば中学生の時に学校の友達に教えてもらいながらtwitterのアカウントを作ってから今日までで8個のアカウントを作っては削除したり別のアカウントに移行したりしてきた

当然そのたびにこれまでつながっていたフォロワーさんとは関係が絶たれるわけでそれなりに悲しかったり寂しかったりしたけど今回のアカウント削除に伴う寂しさはその比じゃなかった

初めてフォロワーさんとの関係が切れることを思いながら涙がこぼれた

きっとそれはこれまでフォロワーさんたちが私がその関係をものすごく大事なものなんだと感じられるほど優しくしてくれたり応援してくれたりしたからで、それは本当にありがたいことで感謝しないといけないことなんだと思う


私はSNS上の関係をどちらかというと軽視してきた人間だ

過去に作った8個のアカウントのうち実際の友人とつながっているアカウント(中学校用のアカウントであったり高校用のアカウントであったり)は3個で残り5個はいわゆる裏アカだった


友達とつながっている方のアカウントはさておき裏アカの方では少なからず嫌な思いをした

平気で人を傷つける言葉をはく人、自分の性的な欲求を満たすためだけに他人の迷惑になるようなことを平気でする人、他人をだまして半ば犯罪のようなことをする人

たくさんの人を見る中で私の中でSNS上の知り合いは単に「承認欲求を満たすための相手」になっていった

だから自分の本心はツイートしなかったしいいねの数がすべてだった

面白いことを言ったり目を引く画像を投稿したりしてたくさんいいねがつけばうれしい。誰がいいねしたかなんて関係ない。フォロワーがだれかなんてどうでもよくてただ「100人」だったり「1000人」だったりした。固有のユーザーネームはついてるけど私からしたらフォロワー1、フォロワー2、フォロワー3...に過ぎない

だからアカウントを変えて彼らとの縁が切れることになんとも思わなかった

次のアカウントでもどうせ新しいフォロワー1,2,3が獲得できるしいいねさえくれれば誰でもよかったから


でも、このアカウントのフォロワーさんは違った

最も最初は同じだったと思う。初期のフォロワーさんには本当に申し訳ないけど誰にフォローされたとか気にしなかったしいいねさえつけばなんでもよかった

DMが来たらそれなりにやり取りはしたしリプが来たら返信もしたけどそこに心はなかった

でも、私が愚痴をはいたとき、つらい状況に置かれたときに多くの方に心配してもらってリプやDMをもらったり助けてもらったりしている中で私はそこに見返を求めない本当のやさしさやぬくもりのようなものを感じて次第にフォロワーさんが代わりの利くただの他人からぬくもりを持った人間に代わっていくのを感じた

次第に私もフォロワーさんがツイートで愚痴をはいているのを見たり何かつらいことが起こっているのを知るたびに本当に心配したり応援したくなったりするようになった


考えるとこれはとても不思議だ

やり取りをしている相手は基本的に画面の中にしかいない。実際に会うことはおろか話すことすらない

でもその相手の言葉に本当に心を動かされている自分がいる

時に本当に会える知人の言葉以上に私の心を動かしてくれるし、私も今では現実世界の友達と同じくらいにフォロワーさんのことを心配したりその成功をうれしく思ったりすることがある


SNSが、twitterがというより「言葉」が偉大なのだろう

SNS上でのつながりが、あるいはそこにいる人間自体が虚構でもそこにある言葉は「真」であったりする。少なくとも今の私はそう感じることができる

だからこそSNS上で浴びせられた心無い言葉に深く傷つき自らの命を断つ人もいる

そんな真の優しさ、ぬくもりをもったたくさんのフォロワーさんとの縁が切れる。涙が出て当然だ

人は出会いと別れの中で強くなるという

当然、その出会いや別れに気持ちが動くほどの意味があればこそ、であろう


今回のアカウントで出会った方々との出会いは確かに私を強くしたし別れも確実に私を強くしてくれる

フォローボタンを押すだけでつながれてブロック、アカウント削除だけで完全に縁を切れる

そんな一見希薄なつながりを真のぬくもりを持ったものに変えてくれて私を強くしてくれたフォロワーさんに、心の底からありがとうを言いたい



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