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存在様態論はマジで謎だが、入門には最適 『ブルーノ・ラトゥールの取説』の取説

前々から読みたいと思っていたラトゥール理論の入門書『ブルーノ・ラトゥールの取説 アクターネットワーク論から存在様態探求へ』を読んだ。

科学社会学を志す者として、避けては通れないラトゥール。自分の事前知識はと言えば、彼がモノもアクターに含めているらしい「アクターネットワーク理論」なるものを提唱しているらしいことと、あのウールガーとの共著で研究室の参与観察をやっていたらしい(?)ということだけだった。とても原著に最初から突撃して理解できるイメージがなかったので、入門書として最良と噂の本書を、仲間との読書会で読むことにした。

読み終わって頭の中に生まれた見取り図は、ラトゥール理論の根幹は、知識と現実が厳密に対応しているという対応説を拒否し、自然か社会に説明を還元することを拒否し、絶えず関係性が移り変わるヒトとモノのネットワークの一時的な構成を追うことで世界を理解しようとする点にある、ということだ。一般的なイメージではやたらと前に出てくる「モノをアクターに含めたこと」自体は、おそらくそこまで重要ではない。世界は絶えず構築され、だからこそ組み換えも可能だ、というのが、ラトゥールの思想だと理解した。

以下、章ごとに概要と考えたことを簡単にまとめる。先に言っておくと、4章の後半で紹介されている存在様態探求の議論がマジのマジで何も理解できなかった。これは本書の失敗というより、ラトゥールの元の議論が本当に分かりづらいということのような気がする(他のパートはだいぶ理解しやすかったので……)。そんな分からなかった部分も含めて、感想を書き留めておきたい。


序論

序論では、ラトゥールの議論の見取り図として、モダニズムとそれを批判して出てきたポストモダニズム、そのどちらにも与しない思想としてのノンモダニズムとして、ラトゥールの思想が位置づくことが整理される。

すごくざっくり言うと、科学が現実と対応する形で自然を解明していて、専門家はより「知っている存在」として振る舞うのがモダニズムの世界観。対してポストモダニズムでは、科学知識も社会の影響から生み出されるものとして社会関係に還元され、専門家はより「疑える存在」として一般人と区別されるようになる。ノンモダニズムは、自然に還元するモダニズムも、社会に還元するポストモダニズムも批判し、そもそも知識は常に関係を変える動的なネットワークの一時的な関係性の中で生成され、専門家も対象とする人々と同じ立場から事象に関わるアクターである、とする立場である。「そもそも我々は未だかつて近代的であったことはない」とする立場なので、ノンモダニズムと言われるのだろう。

第一章 テクノロジーとは何か

この章ではアクターネットワーク理論=ANT(Actor Network Theory)が登場した経緯として、技術に関する社会学の流れを追っている。といいつつ、当然科学に関する社会学も射程に入ってくる。

まず初めに、マートンの系譜を組む「科学者集団を対象とした科学社会学」があり、そこから「科学知識自体の社会性も問うべきではないか」という問題意識に基づく科学知識の社会学=SSK(Sociology of Scientific Knowledge)が登場するという科学社会学史の定説が提示される。このSSKの方法論を技術分野にも適用しようとしたのがテクノロジーの社会的構成=SCOT(Social Construction of Technology)という分野であった。これらの知的運動は、科学も技術も自律的なものではなく、社会の影響下で展開していくという視点を強調するものだった。

こうした見方の限界として、科学知識や技術は社会的要素に全て還元できるとは限らないという点が指摘されてきた。そうした批判の一つとして登場したのが、カロンが最初に提唱したANTである。さまざまな社会的アクターが、技術や自然といったアクターと結びつくことで、モノの意味が「翻訳」され違う意味を持つようになる。こうしたアクターの結びつきのネットワークを追うことが社会学者に求められる、とするのがANTの立場である。ラトゥールの功績は、まずもって技術の分析に適用されたカロンのANTを、社会全体の分析へと展開した点にあるとされる。

章の後半では、ラトゥールのANTの肝要な点が解説される。ラトゥールは、自然や社会に何かを還元しようとするそれまでの学問のあり方を批判し、「いかなるものも、それ自体では何ものにも還元可能であることも還元不可能でもない」とする非還元の原理を提示する。

ラトゥール理論の重要な概念が「仲介」と「媒介」である。「仲介」は、入力に対して一義的な出力を返すことで、還元主義は諸要素感の関係を仲介として捉えることで還元を行なっているとされる。対して「媒介」は、モノやヒトが結びついた時にどのように変容するか=「翻訳」されるかは分からないと捉え、こうした結びつきを捉えるための概念である。アクターネットワーク理論は、媒介されるネットワークが徐々に安定していき、瞬間的に一つのアクターとして振る舞えるような状態になることを「ブラックボックス化」という言葉で捉え、こうした概念を使って起きている事象を分析していく方法論であると言える。

第二章 科学とは何か

この章では、時系列的には(おそらく)一番先行しているラトゥールの科学社会学の著作に沿って、ANTから見た科学の捉え方を提示している。ここで出てくる重要概念が、ネットワークの長短と、循環する指示である。

ネットワークの長短とは、モトやヒトのネットワークがどんどん繋がって長くなればなるほど、「事実らしさ」が構築されていく、という説明のことである。ここでは研究室で実験している人だけでなく、外遊しまくり研究室のために予算や評判を勝ち取ってくるボスの存在も等しく科学にとっては重要なのだ、という話が提示される。

循環する指示は、物質から知識を生み出す科学の営みの過程では、物質が形式へと変換され、それが物質化し、さらに再度形式化され……と、繰り返し変換されていることを指す。これがアマゾンの土壌調査の事例を元に説明される。

この、細かい媒介項が全て消去=省略されることで、世界と言語の対応が形作られ知識が生産される、という話は、研究という営みに少しでも関わったことがある人には納得感がある話だと思う。文系にも分かりやすい例で説明すれば、安全な橋の上で出会った女性と吊り橋の上で出会った女性に後からどれだけ電話をかけてくるかを十数人に試した実験の結果、吊り橋の上で出会う相手の方に電話をかけてきやすいというデータが、媒介項を全て省略されて、「吊り橋の上では人を好きになりやすくなる」吊り橋効果という知識になってしまう、というのもこれに当たるのではないだろうか(本当に、元実験の詳細を見るにつけ、よくこの知見を一般化しようと思うな、という……)。

『ラボラトリー・ライフ』は理解できる気がしないので、『科学論の実在』を先に読んでみるかと思った。こっちも理解できるかは謎だが。

第三章 社会とは何か

この章では「社会や文化もまた人間の専有物ではない」というある意味衝撃的なテーゼが提示される点が重要である。余談だが、普段から自然と向き合いながら文化を作り上げている読書会の建築学科の学生の皆様が「何を当然なことを言っているんだ」みたいな顔をしていたのが面白かった。

ここで登場したのが村人と風車の例である。ある村人がトウモロコシを挽くのに風車を使えばいいことを学んできて、自分の村で風車を建てるが、風が強すぎて壊れてしまう。そこで村人は改良を重ねて風に強い風車を作ることで、実際に農作業のスキームを変えることに成功する。ここにおいて、風車というモノは風の意味を「風車を壊すもの」→「実用的な力を生み出すもの」と組み替えている点でアクターである、というのがラトゥールの主張である。

「社会的なものの社会学」から「連関の社会学」へと転換することで、社会を人間と人間以外の存在の関係性が絶えず生み出され続けるプロセスだと捉えられるようになる。そして研究者も一アクターとして、ネットワークの中で振る舞うアクターのつながりを追っていく存在として位置付けられる。そしてこの捉え方によって、社会のネットワークを組み換え、社会変革を成していく契機が開かれるのである。

第四章 近代とは何か

前半では、ラトゥールにとって根本的な問いであった「そもそもなぜ我々は自然や社会に事物を還元してしまうようになったのか」という問いが、「近代とは何か」を問うものであることが示される。そして『虚構の「近代」』の中でラトゥールが取り上げている『リヴァイアサンと空気ポンプ』のボイルとホッブズの対立の話を追っていくのだが、このパートは少し分かりにくい。空気ポンプを開発し、実験と観察によって真理を見極めようとしたボイルが自然への還元主義の走りだという主張は分かる。だが、演繹的に導き出せる理論のみが真理としたホッブズが社会への還元主義の開祖である(?)というのはちょっと理解できない。誤読しているのかもしれないが、構成的にそう読めてしまい、納得がいかなかった。「理性と知性に基づく政体」をホッブズが求めたのは理解するが、それと社会構築主義における社会還元論とは、少し質が違わないだろうか。

そして後半では、サブタイトルにもなっているにもかかわらず全く理解できなかった存在様態論が紹介される。読書会では担当者がこの部分の発表を飛ばしたのでどういうこっちゃと思い読み直したが、やはり意味が分からなかった。この部分については、ラトゥールの『存在様態探求』を読むしかないのだろう(そんな日は来るのだろうか……)

第五章 私たちとは何か

この章は本書全体の要約であり、ラトゥール理論を生活実践の中でどのように生かしていくか、という点を検討した章でもある。非還元主義に基づいて議論を進めるということは、「XはYではない」というネガティブな議論から、「YではないことをZと名付け、XがZであると考えれば、Zはいかなるものだと言えるだろうか」というポジティブな議論に移行することである。ANTは積極的なことは何も言わない、既存の議論に乗らないための議論であって、何にも適用することはできないことが示される。

ラトゥールがやってきたことは言うなればラップバトルであり、どんな分野の専門家とも噛み合わないまま話し続けることで気づきを得ることがラトゥール流の議論の作法である、と本書は語る。そして、あらゆる現実が構築されているのであれば、私たちはいかようにでも現実を変えていけるのではないか、という規範的言明を持って、本書は締め括られるのである。なるほどANTはスタートアップの思想的バックボーンとしても相性がいいかもしれない、というのが読書会で出た意見であった。

まとめ:事例研究では力を発揮しそう。社会を変える希望にも。

というわけで、存在様態論に関する解説を除いては、概ね初学者でも理解できる平易さで書かれた良質な「取説」だったと思う。読み終わっての感想としては、ラトゥールは還元主義的な説明では満足できない社会事象の事例分析においては、力を発揮するのではないかということだった。また、動的なネットワークという意味では、複雑ネットワーク分析と掛け合わせることも原理的には可能なのかもしれないと計量クラスタ民としては一瞬期待したが、ラトゥールのネットワークは字義通りのネットワークではないので、そういう変化球を投げるなら扱いに注意すべきだと感じた。科学の事実性の強さを検討する上でのネットワークの長短とか、量的に検証もできそうだが、検証せずとも自明な気もするので、使い所は難しいだろう。

何よりも著者はラトゥール理論の現実社会における含意に期待を込めているように思う。社会的なものを組み直す議論をしているラトゥールの理論は、社会的なものは組み直せる、という希望につながる。その意味で、社会運動を行う人々の規範的な理論的支柱にもなり得る、実に応用範囲の広い理論だと感じた。

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