『ラテン・アメリカの旅』−アニメじゃない、本当のことさ−【ディズニー長編アニメ総チェック#6】

さて、今日も「ディズニー総チェック」始めていきたいと思います。
ということで今回取り上げるのは『ラテン・アメリカの旅』

こちらの作品について、これからたっぷりと語っていきたいと思います。


『ラテン・アメリカの旅』について


基本データとあらすじ

基本データ
公開 1943年
監督 ノーム・ファーガソン
脚本 ラルフ・ライト/ハリー・リーブス
製作  ウォルト・ディズニー
出演者 ジョゼ・オリヴェイラ/フレッド・シールズ/フランク・グラハム

作品紹介

実写とアニメーションを融合した『ラテン・アメリカの旅』は、陽気なサンバのビートに彩られたアート、冒険、音楽が織り成す、色鮮やかな万華鏡のような映画だ。
空高くそびえるアンデス山脈やアルゼンチンのパンパス、そしてリオデジャネイロの名所や音楽までを巡る旅のお供は、愉快な人気者ドナルドダックとグーフィー。
ドナルドは負けん気の強いラマと出くわし、ガウチョのグーフィーは南米スタイルのカウボーイ生活に挑戦する。

ディズニープラスより引用

実写パートでの気づきが、アニメパートにつながる

今作品は特殊な構成で出来ている。

冒頭映し出されるのは「ウォルト・ディズニー」や「ディズニー」のアニメーターたちが飛行機で「ラテン・アメリカ」に向かう場面だ。

そして彼らは、この旅で得た「気づき」「知識」「アイデア」を元にして「短編アニメ」が制作され、それが完成後の作品として流される。
それが終われば、また彼らの旅の様子を映す。
つまり「実写パート」と「アニメパート」が繰り返し4度展開されるという構成になっているのだ。

ちなみに各短編アニメには以下のようなタイトルが付けられている。

ドナルドのアンデス旅行
小さな郵便飛行機ペドロ
グーフィーのガウチョ
ブラジルの水彩画(Aquarela do Brasil)

どれも物語に連続性はなく「オムニバス形式」となっているのだが、一つだけ共通していることがある。
それは「我々が自慢”されたい”ラテン・アメリカ」が描かれているということだ。

「我々が自慢”されたい”ラテン・アメリカ」とは?

この映画のアニメパートで描かれるのは「我々が”自慢されたい”ラテン・アメリカ」の魅力だ。
実写パートの目的が、そもそも「ラテン・アメリカ」の魅力を知るためなので、当たり前ではあるのだが・・・。

さて、この我々が「自慢されたい」というのは、例えば「ブラジル」だったらサンバだったり、カーニバルだったり。
「チチカカ湖」の周辺の「インカ帝国」の名残ある風俗に触れることだったり。
「ガウチョ」と呼ばれる文化だったり。

言ってしまえば、我々がよく知る。
もっと、突っ込んだ言い方をすると「理想的」なイメージの具現化だと言い換えることができる。

これを例えば日本に置き換えるとするなら、侍、武士、忍者について、外国人は自慢されたい、そんな感覚に近いと思われる。

ちなみに、これは後述するが、この作品が制作された裏側には「政治的意図」「ディズニーの抱えていた問題」という「ウラの事情」がある。
当たり前だが、この「ウラの事情」は全く映画には反映されていない。

見ている分には、この作品は「理想的なラテン・アメリカ像」を描いており、「紀行」作品的な楽しみもできる。
そして「ウラ」の事情を知れば、当時の「ディズニー」の状況が透けて見えてきて興味深い点も多い作品なのだ。

ドナルド、グーフィーの魅力

ドナルドのアンデス旅行
小さな郵便飛行機ペドロ
グーフィーのガウチョ
ブラジルの水彩画(Aquarela do Brasil)

先ほども前述したが、この作品は上記の4作品のオムニバスでできている。

2本目の「小さな郵便飛行機ペドロ」だけは、飛行機を擬人化した「ペドロ」たち一家の物語だ。
他の作品は「ドナルド」「グーフィー」が主役となっている。

小さな郵便飛行機ペドロ

先に例外となる「小さな飛行機ペドロ」について語っておくと、この作品は『機関車トーマス』や、「ピクサー」作品『カーズ(2006年)』のように、乗り物が擬人化された世界観での物語だ。
これは『カーズ』のスピンオフ『プレーンズ(2013年)』の元ネタと言ってもいいほどに似ている。

この作品ではいかに「アンデス山脈」を超えるのかが難しいのか? というのが描かれている。
ただ既存のディズニーキャラを頼らない姿勢。
さらに短編で見事に「飛行機の擬人化」というのを描き切れている。
そして自然環境は「美しい」だけでなく、そこに「厳しさ」という面も描けているので、見応えある短編になっている。

その他、3作品

そのほかの3つの短編は、ドナルド、グーフィーというディズニーでも人気のキャラを投入している。
これは個人的意見だが、この2人は「割とぞんざいに扱っても」いい、それが魅力だ。
そして、それが見事に功を奏している。

ウォルトはミッキーを生み出してから、彼の使い方に苦心していた節がある。
というのも、当時は、よりコミカルな役目などを担ったり、キャラクターとしての人気は、ドナルドやグーフィーとした他のキャラクターにとって変わられていたのだ。
ミッキーの将来についてウォルトは悩んでいた。
「どうにかミッキーに活躍の場を与えたい」と。
それはミッキーがウォルトの分身だったからこそだ。

『ファンタジア』評論記事より引用

個人的にもミッキーの人気がドナルド、グーフィーにとって変わられていった状況が、この作品を見てよくわかった。
それは「ミッキー」という存在は「真面目より」のキャラだし、どんどん権威的存在になっていく。
すごく「ブランド」として確立されてしまう。
一方ドナルド、グーフィーは「なんでもさせられる」のだ。

要は「アニメキャラ」として演技の幅が、やはりドナルド、グーフィーの方が広いし、NGがない。
それがミッキーとの絶対的な違いになっているのではないだろうか?

例えば「チチカカ湖」でラマにキレるドナルド。
さらに「ブラジル」で「ホセ・キャリオカ」というオウムと出会い、最後には酔っ払いサンバに興じたり。
最後には「クラブ」にまで行く。

グーフィーは「ガウチョ」の文化を知るために、その1日を「体験」するのだが、馬にナメられたり散々な目に遭い、そしてグーフィーのノロマ感が可愛かったり。
そんな2人の魅力が3つの短編ではしっかり描かれているのだ。

当然、ミッキーにはミッキーの良さもある。
本論とは全く関係ないが、もしも「ディズニーキャラ」を「アイドルグループ」に見立てた場合。

やはりセンターはミッキーだろう。
ディズニーランドなどで彼が出てくると、やはり他のキャラにはない華がある。
「ディズニー」というグループの顔でありセンターだ。
そして「カリスマ性」すら持ち合わせている。
かたやドナルド、グーフィーはその脇を固める存在で、しかも「体はれちゃう系」アイドルなのだ。
「NG」なく体当たりで様々な企画に挑戦する系。
これはこれで、やはり素晴らしい存在だとは思うのだが・・・。

「ウラ」の事情もある作品

この作品の制作の裏には、「ラテン・アメリカ」でも人気のあった「ディズニー作品」を通じで「アメリカ文化」を広めてほしい。という「米国国務省」からの依頼があった。
表向きは「文化交流」であり「親善政策」だ。
しかしウラには別の意図があった。

1940年代、当時の「ラテン・アメリカ=南米」には「イタリア」「ドイツ」からの移民が多く、アメリカはこの地域で「ファシズム思想」が台頭することを恐れたのだ。
だからこそ「アメリカ文化」を広めて、「ファシズム思想」の蔓延を防ごうと考えたのだ。

つまりハッキリとした「政治的意図」があったのだ。
そしてウォルトがそれを承諾したのも理由がある。
それは「ディズニー社内」の内紛だ。

1941年アニメーターやスタッフが大規模なストライキを起こしたのだ。
理由は様々だが、主には『白雪姫』の製作などで、スタッフに長期間の時間外労働などをさせたにも関わらず、低い賃金でこき使い、当然割増賃金も支払っていなかったのだ。
このことが最も大きな火種となり、長期間のストライキとなり、「ディズニー」は混乱に陥ったのだ。

ちなみになぜ賃金を払えなかったのか?
それは『ピノキオ』『ファンタジア』『バンビ』の製作費が上がり、どんどん財政を圧迫していたからだ。

そんな状況から一度目を背けたい。
そう思ったウォルトは「南米の視察旅行」そして「文化交流」を行うことを決意したのだ。
こうした事情を考えると「実写パート」でのウォルトたちは、いったん現実を忘れて楽しんでいるようにも見える

結果ウォルトの狙いは功を奏して、約5ヶ月続いたストライキは、彼らが帰国する頃には収まっていた。
そしてアメリカの狙いである「アメリカ文化を広める」という名目は、この作品のヒットで、これも狙い通りになったのだ。

まとめ

今作は、なかなか語るのが難しい作品だった。
正直、内容云々というよりも、キャラクターの話になってしまった。

ただ、作品の「アニメパート」を通じて「我々が自慢されたい」つまり「理想的」と思える「ラテン・アメリカ」が描かれているし、登場する国々に興味を持てる作劇になっているのは流石ディズニーと言ったところか。

そしてこの作品の制作のウラには様々な事情があったこと、そのことも忘れてはいけない。

そういう意味ではこの作品はディズニー作品の中で最も「政治的な意図」で作られたとも言える。
そして「ディズニーの内紛」には、最近(2020年ごろ)「ディズニー」が行った「大量解雇」という点がどうしても重なって見えてしまう。

「夢を与えるディズニー」
だが彼らも、また「資本主義」という、非常に現実的な、あまりにも「リアル」な環境を生きている「一企業」なのだと改めて実感させられた。
まさに「アニメじゃない、本当のこと」
その面も透けて見える作品だった。

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