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『コンクリート・ユートピア』を語る

今回は2024年公開の新作映画を評論します。
ただ今回紹介する映画は、地震・災害というものを描いているので、時節柄のこともあるので、読み飛ばしていただいても構いませんので。

ということで、今回は韓国映画『コンクリート・ユートピア』
こちらを劇場で鑑賞してまいりましたので、その話をしたいと思います!


『コンクリート・ユートピア』について

基本データ

  • 監督オム・テファ

  • 脚本イ・シンジ オム・テファ

  • 出演イ・ビョンホン/パク・ソンジュ/パク・ボヨン

あらすじ

大災害により荒廃した韓国・ソウルを舞台に、崩落を免れたマンションに集まった生存者たちの争いを描いたパニックスリラー。

世界を未曾有の大災害が襲い、韓国の首都ソウルも一瞬にして廃墟と化した。
唯一崩落しなかったファングンアパートには生存者が押し寄せ、不法侵入や殺傷、放火が続発する。
危機感を抱いた住民たちは主導者を立て、居住者以外を追放して住民のためのルールを作り“ユートピア”を築くことに。
住民代表となったのは902号室に住む職業不明の冴えない男ヨンタクで、彼は権力者として君臨するうちに次第に狂気をあらわにしていく。
そんなヨンタクに傾倒していくミンソンと、不信感を抱く妻ミョンファ
やがてヨンタクの支配が頂点に達した時、思いもよらない争いが幕を開ける。

公式サイトより引用

震災後の世界の混乱を描く

今作品は物語の冒頭に大災害が起き、主人公ミンソン、ミョンファの夫婦。
そして冴えない男ヨンタクの3人を中心に描かれていく。

どういう訳か主人公たちのアパートだけは震災の被害を免れ生活できる環境が整っており、最初は他の被災者を受け入れていたが、次第に彼らを自分たちの蓄えや居住環境を乱す存在として追い出していく姿が描かれる。

この作品本来は登場人物全てが「被災者」であるはずが、中でも整えられた環境を持つ者が、持たざる者を見下し、差別していく様子が描かれる。

例えば心理学において「監獄実験」と呼ばれるものがある。
普通の人間を集め「看守」「受刑者」に分け、実際の刑務所のように役割を演じさせると、次第に看守は受刑者に横暴な態度を取り、必要位以上の痛めつけを行ったのだ。
このことから、強い権力を持つ者、持たざる者が常にいると、次第に理性的な行動が取れずに暴走してしまうことが証明されたのだ。(実験自体への疑義は出ている)

さらに作中その理性を失い暴走する様子は、さらんエスカレートしていく。
持つ者は持たざる者を「ゴキブリ」と呼び、彼らを下等な存在として見下していくのだ。
こうして自分たち以外の存在を卑下し、「非人間扱い」することで差別、場合によっては虐殺が行われる、これも現実だ。
(イスラエル人はパレスチナ人を「動物」と呼び、現状虐殺を繰り返している)

今作の主人公の1人ミンソン。
彼は最初は周りに流されながら、非アパート住人を追い出すことに加担するが、次第に自ら非アパート住人を見下し、傷つけていく。
だが、本人は「悪いこと」をしている自覚は一切ない。
その姿が妻のミョンファには恐ろしげに見えるのだ。

また最終的に狂気の体現者として、実質的アパート世界の支配者になるヨンタク。
彼は彼で、物語の終盤で素性が明かされるが、とはいえ元々気弱な性格をしていた。
だが、そのたがが外れた時に、彼は手段を選ばない極悪な存在になってしまうのだ。

そんな人間の極限時の残酷さを、この作品は描いていく。

誰もが「暴走」することはある

この作品を見て「自分はこうはならない」と言えるのか?
すごく自問自答させられた。
というのも、こうした状況になり、自分たちの生死すら不透明な中で、他人の心配などしていられるのか?
その他人が自分たちの居住空間や食料を奪おうとするのではないか?
疑わずに済むのだろうか?

作中でもアパート側の住人が強固思想になった原因の一つに、非アパート住人が勝手にアパート住人の住んでいる部屋に上がり込み、住人を刺し、そして放火まで行ったのだ。
こうして、自分たちの居住空間を奪おうとしてくる存在がいたとして、それを追い出せという思考になるのは、おかしいことなのか?
自分はこうはならないと言えるのか。

こうした理性が崩壊していく様を描いた作品を見ていて自問自答すべきは、「誰しもがこうなる」可能性を考えなければならないのだ。
最初はヒトラーの存在をドイツ人は鼻で笑っていたが、次第に彼の狂気に動かされ、熱狂に変わり、それが悲劇の歴史に繋がったのだ。

救いのある新世界へ

今作では混沌とするアパートを巡る状況から最後には解き放たれていく様子が描かれる。

住人と非住人の衝突により、ついに世界から「理想郷」は失われた。
そこで辿り着いた最後の場所。
そこでは「生きているものに手を差し伸べる」という、助け合いの世界が成り立っていた。

人間は理性を失う危険性を抱いてる。
だけど、それでも人間の「理性」を信じられる場所が最後に用意されているのだ。
夫婦最後の時間を過ごす教会、神への愛と隣人への愛は等しいものと教えるキリスト教の教会だと思われるが、そこからミョンファは本当の意味での「理想郷」へと辿り着くのだ。

極限での人間の理想の暴走、そして人間はそうした思考に傾倒しやすい危険性を描きながらも、それでも世界は捨てたものじゃない。
そんな希望を抱かせるラストシーンに我々は心動かされるのだ。


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