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珍品な映画『ボーはおそれている』を見た感想

今回は世界的ヒットメイカーとして認知されているアリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』の感想を語っていきたいと思います。


『ボーはおそれている』について

基本データ

  • 監督 アリ・アスター

  • 脚本 アリ・アスター

  • 出演者 ホアキン・フェニックス/ネイサン・レイン/エイミー・ライアン ほか

あらすじ

ボーは些細なことでも心配になってしまう怖がりの男性だった。
ある日、先ほどまで電話をしていた母の怪死の報せを受け、帰郷しようとするボーだったが、アパートの玄関を開けると、目の前に広がるのはいつもの日常ではなく、現実とも妄想ともつかぬ世界で……

支離滅裂な悪夢の3時間

この映画を見た観客は、上映時間の約3時間、主人公ボーが体験する悪夢的で支離滅裂な展開を体験することになる。

そして彼の体験する世界はどこか現実離れした、暴力と混沌が支配している。
この映画は4つのフェイズで区切られており、ボーが失神をすることでフェーズが移っていく作りになっているのだが、特に第一フェイズ。
この場面のドタバタ劇が、本当に酷い有様だ。

心配性の主人公ボーがカウンセラーとのカウンセリングを終え、そして母が死んだことを知り、なんとか葬儀に向かおうとするボー。
しかし彼の行方を阻むのは、まさに混沌の世界だ。
家の鍵と荷物を奪われ、薬の副作用のため水を欲するが、住んでいるアパートが水道工事で水が出ない。
そこからのドタバタ劇。

暴力的な浮浪者やヤンキーたちが鍵のないボーの家に入り込み、やりたい放題の悪事をする。
何とか皆んなが去った後に、放心状態でお風呂に入ると何故か男が脂汗を垂らして天井に張り付いて、落下してくる。

そこからパニックのボーが素っ裸で外に出ると、何故か外の世界には素っ裸の殺人鬼がうろついている。
警察に助けを求めるも変質者と勘違いされて「動くな」と銃を突きつけられる、だけど何故か股間が動いてしまい・・・。
そして半狂乱のまま道路を逃げ惑うと、そこで車に跳ねられて。第一のフェイズが終わる。

一体何を見せられているのか?

今回は確かにアリ・アスター監督作ということでホラーでグロテスクなシーンもあるのだが、それよりも「あまりにも酷い」ギャグのつるべうちになっており、「そんなわけあるか!!」と内心でツッコミを入れながら映画に飲み込まれていく。

ただアリ・アスターは「見たままにグロテスク」なことを描くような単純な監督ではない。
彼は我々が内心薄々嫌だと思っていることを具現化することに長けているのだ。

例えば、こんな想像をしたことはないだろうか?
外出するときに鍵を閉めたかどうか不安になること。
もしもそんな時に家の中に誰かが入っていたら?

道を歩いていると変な人が向かいから歩いてきた、普通はそんなことはないけれど、何かトラブルに巻き込まれるのでは?
そんな不安になることはないだろうか?

このパートは明らかにボーが飲んだ薬の副作用で、もともと彼の心配性がさらにエスカレートし、彼の妄想を具現化したものだ。
しかし、こうはならずとも我々の持つちょっとした「不安」を描いていると考えれば、このパートの支離滅裂さは笑えるが、しかし少し複雑な感情を抱いてしまう。

支配されていることの不安

そこから第二フェイズは、ボーを引いてしまったロジャーとグレイス夫婦の自宅で介抱されるところがメインで描かれる。

しかしこの夫婦にも所々おかしな点が垣間見えるし、そもそも娘トニの部屋を勝手にボーのために使っているなど、もうおかしい。
そして、彼と同じようにこの家で療養している、戦場でメンタルを病んだ大男ジーブス。
彼が画面の中で見切れたり、こっちを見ていたりなど異物感がものすごいのも印象に残る。

そしてロジャーがボーを母親の葬儀のために自宅に送ろうとする日、またもとんでもない事態が起こる。

突然トニがペンキを飲んで自殺未遂を測るのだ。
(その前にトニが友達とボーを車で連れ回すのも意味不明なんだけど)
ボーのせいで自殺をしようとしたのかと、勘違いし激怒した両親はボーを殺そうとする。
そしてジーブスに武装をさせて彼を追い回すのだ。
命からがら逃げると、またも気絶をし第三フェイズに物語は移行する。

第三フェイズはボーが森の中で「森の孤児たち」という演劇グループの演劇を見ながら、ボーがあり得たかもしれない可能性を妄想しつつ、彼の過去の初恋のエピソードが挿入される。
ここで物語の謎的なものが少しずつ明らかになるのだが、しかしここもボーを追ってきたジーブスの殺戮によって崩壊し、またボーは失神。
いよいよ全てが明らかになる第四フェイズに入る。

ここで明らかになるのは、実はボーの最大の「おそれ」は母に対してだったのだ。
幼い頃から母に抑圧的に育てられ、彼女の理想通りに生きることを強制されてきたボー。
彼女はボーに遺伝で「性行為をすると死ぬ」「遺伝でそう決まっている」と教えられ、それを忠実に守り続けたのだ。

しかし明らかになる父親の事実。
映画を見た方はわかるだろうが、あの「んなアホな」と開口せざるを得ない父親のヴィジュアルとその顛末。
そこからの超展開など、本当に訳のわからない、しかし何となくストーリーの全容が見えてくるラストに突入していく。

このある意味での円環構造に落ちていく感じは、まさに夢野久作の『ドグラ・マグラ』の巻頭歌、「胎児の歌」を彷彿とさせる。

胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって 恐ろしいのか

ドグラ・マグラ 巻頭歌

要はこの作品、やはりアリ・アスターがこれまでの作品で描いてきた「家族の怖さ」中でも「母親の怖さ」を描いていたのだ。

ただ、これまでの作品以上に主人公ボーが味わう不条理さが、際立っているので、全体像を理解しにくくなっているのだ。

不条理さと「ヨブ記」

この映画の「不条理」な展開の数々は「ユダヤ教」の「ヨブ記」からきている。

ふじょうり
【不条理】事柄の筋道が立たないこと。

「ヨブ記」を簡単に掻い摘んで説明すると、真面目に神を信仰していたヨブ。
彼を不幸な目に合わせまくったら、神様を信じなくなるのでは? と悪魔に言われた神が、「いや、そんなことない、テストしてみよう」というノリで、愛する家族、子どもたち、財産、何から何まで奪ってしまうのだ。

それでも神を信じる彼に、「命を取らない」ことを条件に様々な不条理を与えられ続け、それでも神を信じ続けたヨブ。
彼は最後に神から全てを取り戻して生涯を閉じることになる。

要は、何かが起きた時「何々のせいだ」と考えがちだが、世界に蔓延る不条理は実はコントロール不能なものが多いことを学ばせる物語だ。

ボーの身に降りかかる不条理は、当然彼が何かをしたからではなく、神の如き母の、しかもその歪んだ思想により降りかかるもので、「子供は親をそもそも選べない」という、人間は生まれながらに不条理なのだと、ある意味で「家族とは呪い」という側面を描いているとも言える。

これまでのアスター作品との違い

この作品が過去のアスター作品と違うのは、過去作品は明確にハッピーエンドと言える要素がきちんと描かれている。
もちろんこれらの映画はとんでもない展開だし、起きている事柄だけに注目すれば、それは信じられない程にバットエンドだ。

特に前作『ミッドサマー』は、ホルガ村を訪れた面々はダニーを除いて全員死亡、それも非常に残酷な死に方をする。
その光景を目にしたダニーは確かに、ショックを受け、ホルガ村の面々を理解できない恐怖に襲われ、メンタルが崩壊しかける。
だが、最終的に実は自分を最も理解するのは、この村人たちだったということに気づき、笑みを浮かべる。

愛する家族を失ってから、そして恋人との関係は冷え切り、彼女は自分を理解してくれる仲間を求めていた。
そしてそれを得ることができた喜びで映画が締めくくられた。

このように明確なハッピーエンド性というのが垣間見えれるラストがきちんと描かれていた。
しかし今作はどう考えても、これ以上ない不幸な結末を迎える。

家族とは「呪い」の側面がある、そしてそこから今作はある意味で解放されない主人公ボー。

アスターは自分の過去を惜しげも無く映画に投影するタイプの作家だが、今作を見ていよいよ、「こいつは過去何があったんだ!?」と彼の人生にこそ興味を抱かずにいられなくなってしまった。

まとめ

ということで、この映画をいろいろな解説を見ても、100%理解することは恐らく出来ないし、何をして理解したのかと言えるのかもわからない。

他人に勧められる作品ではないし、でも2024年に『ボーはおそれている』を観たということは、この先も覚えているだろうし、印象に残る作品であることは間違いない。

とにかく頭がおかしくなりそうになる映画であることは間違い無いので、ぜひ3時間、クラクラするような映画体験をするという意味では、間違いなくおすすめの作品だと言える!





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