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田中先生が拓いてくれたもの

一昨日の判決のこと。
文章も下手だし、気持ちも整理出来てないけれど、残しておきたいので少し書いておくことにしました。
不出来な日記みたいな感じです。

起きた時から、いつもよりソワソワしていて、いつもより空気がチクチクしている感じがしてた。
落ち着かなくて、ずっと脳が何かを考えようとしている感じ。
(そのせいか、いつもよりダジャレが多く思い浮かぶ日だった。)

初めて「待合室」に通してもらい、1時間ほど待った。
次々に待合室に到着する先生たちや、CALL4の方々の顔を見るたびに、「緊張」と「安心」が階段を登っていくような感じ。
待ち時間に読もうとしていた卒論用の文献を開いても、内容が頭に入ってこない。

「証人尋問の時も、かなり裁判官から積極的な質問があったりもして、いい判決が期待されてる裁判なんです。」
何回も、何回もそう言って周りの人に伝えてきた。
「変わるかもしれない」
一番期待していたのは僕だ。

時間になり、法廷に入れてもらった。
周りを伺いながら、真ん中の一番前。
座りたかった席に座った。

基本的に撮影ができない法廷にカメラが入り、職員がその旨を説明していた。
何度も同じ説明をされることに苛立ちを感じてしまうほど、僕は神経質になっていた。

裁判官が法廷に入り、一同が起立。
いつもは読み物をしていて起立のタイミングが遅れる僕も、今日は遅れずに起立した。

最初に見たのは傍聴席から見て右側の裁判官。
証人尋問の時に積極的だった裁判官だ。
法廷内の撮影が終わり、田中先生と他の記者たちが入る。
(記者席にソーシャルディスタンスは無かった。)

判決の言い渡しが始まり、裁判官が口を開く。

「原告の請求をいずれも棄却する。」
「訴訟費用は原告の負担とする。」

最初に湧き上がったのは強い怒り。
事前に若生先生から、主位的請求(未払い賃金)も予備的請求(国賠法による賠償)も棄却されるだろう、という話を聞いていた。

それでも理性的にはなれなかった。
頭によぎるのは「不当判決」という文字。
さっきまで1番使いたくないと思っていた旗を、その時には「使いたい」と思っていた。

「訴訟費用は原告の負担とする」

この言葉もとても重かった。
田中先生の問題提起はとても公共的なもの。
「次の世代のために」と立ち上がってくれた田中先生に、全ての責任を押し付けるような冷たい言葉に感じた。

裁判は、今ある問題に対して、違法性さえあれば1人でも社会に問題提起ができる画期的な手段だ。
しかし、その裁判というステージに乗せることができる状況は極めて限られる。
資金力、証拠、時間、理解のある弁護士さんとの繋がり、当事者であることなど、多くの条件がある。
その条件からこぼれ落ちている「声にならない声」が今も多くあるはずだ。

先生たちの中にも、今本当に学校に行くのがしんどくて、疲れ切っている人がいるはずだ。
心を病み、命を失ってきた人もいる。
でもそんな人は声を上げられるわけがない。
そんな中で、田中先生が最後の仕事として、自腹を切って提訴してくれた。
この裁判はそんな奇跡のような裁判だ。

そんな事情、裁判官には関係ないのかもしれない。
そう思うくらいに冷たくて分厚い大きな壁を感じた。

言い渡しが終わり、先生たちの話し合い。
どの旗を出すかを決めている間に、同じ事務局のアキレスさん(石原さん)に言った。

「不当判決ですね。」

強い憤りで自分が攻撃的になっているのがわかった。
今すぐに抗議したい。
そんな気持ちだった。
それを聞いたアキレスさんは冷静で、

「微妙じゃない?まだわかんない。」

結果的に、先生からもらった指示は「画期的な判決」
一部が「労働時間」として認められたことを評価した判断だということはわかった。

外に出て、台風に晒されながら旗を開いた。

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旗の文言とは正反対に、全員が険しい顔をしている。
そんな気持ちだった。

「画期的な判決になってるよ!」

乱暴な態度のマスコミから怒鳴られた。
間違いだと思われるような状況だった。

人の流れに飲まれながら、マスコミでもないのに囲み取材のほうに向かってしまった。
(旗出しの後は会議室に行って判決文公開のための作業をするはずでした。ごめんなさい。)

とにかく先生たちの話が聞きたかった。
先生の話を聞いて、「画期的な判決」であることは理解した。
憤りが引いて、冷静になるのと同時に、どうしようもない悲しさが出てきた。

余裕がなくなるとすぐ攻撃的になってしまう僕は、この時、乱暴な言葉遣いのTBSの記者に苛立っていた。

会議室に行き、判決文をネットに公開する作業を始めた。
さっさと作業をしないといけないのについ判決文を読んでしまう。

黒塗りにしないといけない個人情報を探すなかで、先生が証拠として提出していたいくつもの時間外労働を「労働時間」として認める記述が次々に出てきた。

「登校指導」「集会の引率」など、多くの計量しやすい労働が認められていた。
思い浮かんだのは、登校指導に対する不満を話してくれた小学校の先生のこと。
その不満に向き合うことができなかった後悔がずっと心に残っていた。

「認められた…!」
判決後、初めて感じた嬉しさ。
先生たちの「画期的な判決」という判断に感謝をした。

光が見えた気がした。
進んだ気がした。
先生たちが勝ち取った。

一気に、働き方に悩む先生や友達のことが頭の中で駆け巡った。
「あれも、これも、労働時間として認められるかも…」

部活や最終下校時間の問題。
計量がしやすくて常態化している業務がまだある。
違法になりうるケースがたくさんあるはず。

ただ、本当にしんどい働き方をしてる人は裁判なんて起こすのは難しい。
わかってる。
僕も友達に「裁判おこそう」なんて言えない。

だけど、今回の判決は確実に文科省の解釈に異を唱えた。
「おかしい」と思ってる先生、いるはず。
「もっと仕事多い」と思ってる先生、いるはず。

署名活動や要望書なら、必ずしも当事者じゃなくていい。
誰かが代わりに声を届けることができる。

田中先生と一緒に、先生たちの不満、届けたい。
多くの人に力を貸してほしい。

田中先生がこの判決を勝ち取ったから、
「違法」だと言える。
田中先生が開いた可能性。
今、協力して、変えたい。

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