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並行書簡-37

バイトに落ちた。

それについてはなんの感覚も感情もない。なんだか強がりみたいにみえそうな気もするが、本当にない。

なくて困ってしまうので、とりあえずネタとして扱うことにして、笑うことにしたが、周囲の反応は、そこはかとなく慰めてくれたり、理由を考えてくれたり、採用担当者の見る目のなさに怒ったりしてくれる人がいるなど様々で、人って面白いなぁと感じている。

ものごとは、何もないところからシャボン玉のように透明な球として現れ、形を現し、そこに極彩色が浮かぶ。そしてほどなく消える。

【引用はじめ】

 私は、こういうのこそが、まさに、「流れ」を捉えた、とか、「流れ」を言語化したとか、言えるものなんじゃないかと思っている。しかし、その文を入力する間に、文頭近くの「こういうの」の指示内容が、すでに、飛んでしまった。危機感がないどころか、私は、それが「飛んでしまった」ことを、喜んだり、嬉しがったりしている節がある。そう書きながら、私は、少年か、少女かが、シャボン玉を、楽しそうに、吹いて、作って、飛ばして、眺めて、遊んでいる絵が浮かんでいる。いいなぁ。楽しいなぁ。楽しそうだなぁ。両方だなぁ。「なんで区別せなあかんねん。」と思いながら、私はこの、「なんで区別せなあかんねん。」という発想もまた、シャボン玉なんだろうと、思っている節がある。

 おそらく、シャボン玉に見える人、シャボン玉に見えない人、というのがいる。シャボン玉で楽しく遊ぶ人と、シャボン玉の喪失を嘆く人がいる。ある場面で楽しく遊んでいた人も、ある場面では、嘆く。逆もまた、然り。

 「おもしろくなってきたぞ。」と書きながら思ったものの、あっという間に、「普通のこと言ってんなぁ。」になる。私は、私もシャボン玉のような気がしてきた。

 そう書いて、「違う。」と思った。シャボン玉なら、シャボン玉を眺められない、と思ったが、それも違うな。人間も、人間を見ている。私は、人間とシャボン玉を区別することに飽き始めている。

【引用おわり】

「バイトに落ちた」というものごとがシャボン玉なら、「小曽根賢」や「伊藤雄馬」というものごともシャボン玉だ。それは単にスケールの違いでしかない。「人の一億倍長く生きる存在」にとっては、どちらも瞬間に起きて消えていく何かだ。

【引用はじめ】

結局は、この自然と人工も、流れるも留まるも、言葉にすぎず、人間のスケールの反映だよな、と想うのだ。

人は、100年も生きれば、だいたい死ぬ。1日24時間で、1年は8760時間だから、だいたい90万時間のなかに人生は収まる。

その時空間のスケールから、「流れる」と「留まる」は作られる。例えば、90万時間で1メートル移動する液体があったとして、人はそれを「流れる」とは言わないだろうし、「川」とも呼ばないだろう。けれど、例えば寿命が人間の一億倍ある存在が、同じようなさに90万時間で1メートル移動する液体を見たら、「流れる」と言うかもしれないし、「川」と呼ぶ可能性があるのではないだろうか。

【引用おわり】

誰もが「人の一億倍長く生きる存在」すら余裕で含む何かを知っている。そこから自分たちが、全てが訪れていることも知っている。知っているのに、知らないふりをする。それは、シャボン玉が生まれてから消えるまでが全てだと、勘違いするためだ。

シャボン玉が消えれば、世界が消える、と勘違いすることで、シャボン玉が大きかったり小さかったりすることを、喜んだり悲しんだりできる。大きければ長くあり、小さければ短くある。そう勘違いできる。そんなはずないことは、シャボン玉で遊んだことがある人なら、誰でも分かっているだろう。

シャボン玉の大きさは、線で描かれる。白の背景に、黒の線で視覚化される。それは二次元的なシャボン玉のイメージだ。白黒の世界にしか、「シャボン玉は大きいほど良い」と捉えられる地平はない。

シャボン玉は、線ではない。いつだって球だ。光が当たれば七色に輝き、自由に飛び回る。たくさんのシャボン玉が、それぞれの大きさで輝き踊る、七色の世界だ。その世界でも、依然として大きいシャボン玉もあれば、小さいシャボン玉もある。けれど、「大きさ」はいまや彩りだ。大きさに良いも悪いもない。どちらもあるから、なお美しい。

しかし、実のところ、シャボン玉に色はない。透明で、ほとんど重さもない。光が七色に見せ、風が踊りを演出しているのに過ぎない。シャボン玉は輝かない。シャボン玉は踊らない。シャボン玉に「目標」はない。シャボン玉に「あの屋根まで飛んで!」と願うのは、いつもシャボン玉ではない誰かだ。シャボン玉は前触れもなく、不意に消える。

ディクテーションの話はここにある。白黒のシャボン玉、七色のシャボン玉、色のないシャボン玉、それはどれもひとつのシャボン玉であって、別々のものではない。同じものを、別々のものとして捉えているリアリティが、ディクテーションの感覚を生む。時間のないところに、時間を生み出すかのように、異なる見方を同時に達成しえないという、感覚規範の幻想が、ディクテーションを感じさせる。

心臓はディクテーションを感じない。心拍に時間差はないからだ。シャボン玉はただ形を変え続け、次の瞬間には形を失う。

肺はディクテーションを感じない。呼吸に時間差はないからだ。シャボン玉はただ色を変え続け、いつのまにか空色に溶ける。

おいおい、なんだかバイトに落ちた人間の言う言葉にしては大袈裟だな。まぁ、そんなに肩肘張らず、聞き流してもらえたらそれでいい。大したことは言ってない。言わざるをえなかっただけのことだ。あなたがこれを何色に見るか、ぼくは何も関知できないのだし、何色に見えても、素晴らしいんだから。

【引用はじめ】

 第二十八回に、私の“お目当て”と思しきものが、あった。何がしたくて私はこの引用の羅列を始めたのかは、わからない、あるいは、覚えていない。何か、あったんだろうと思う。そういうところの、私の、何に対してだかはわからないが、とにかく、その漠とした“何か”に対する信頼というのは、あまりにも揺るぎない。「揺るぎない」から、安心しきって、呑気である。
 私は、今書いた、「何がしたくて私はこの引用の羅列を始めたのか」と、もしかしたら、強い結びつきが、あるかもしれない箇所が、流れてきている。私の執筆した箇所でシメるのも少し恐縮だが、それを引用して、今回は終わろう。《「シメる」というよりも、むしろ、「開きっ放しで終わる」と言った方がいいかな?》というのが今、よぎりました。
 もう、本当に、何もかも、誰も彼も、どうもありがとうございます。

【引用おわり】

むりすんなよ