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並行書簡-35

【引用はじめ】

 ものを減らすと、そこに空間ができる。順序としては、空間があった、もしくは、あるから、そこにものを置けた。しばらく、そこに放置されていた。単なる「放置」ではなく、活用すべくそこに置かれ、次第に、いつのまにやら、「放置」になった。
 ふと、気付く瞬間が訪れるーー「捨てよう。」ーーこれは、「ぁ、『放置』してる。」だ。
 使われているうちは、循環があるが、「放置」になると、溜まる。滞る、という表現をしてもいいだろう。処分すると、再び、流れ始める。

【引用おわり】

日本にある川の数をご存知だろうか。ぼくは分からなかったので、調べた。

国土交通省によれば、平成17年の段階で、一級河川が13,994河川、二級河川が7,090河川、準用河川が14,314河川あるという。ぼくの計算が間違っていなければ、日本には合計で35,398河川あることになる。

日本にある湖沼の数はご存知だろうか。ぼくは分からなかったので、調べた。

平成5年の環境省のデータによると、480湖だという。

これに対して、「人工の湖沼」、つまり池の数は.農林水産省のデータだと、平成27年には、197,742面だという。

つまり、湖沼や池を含む、「大きな水溜まり」は99%以上が池、つまり人工だ。

なぜこんなことを調べたのかというと、流れるものと留まるものであれば、自然には流れるものが多く、人の手が入るところには留まるものが多い、と予想したからだ。

川は、天然の水溜まりである湖沼の70倍ある。

一方で、人工の水溜まりである池と比べると、川は、池の約1/6程度しかない。

もちろん、これは日本の話だし、水量の話になるとまた違うのかもしれないが、ここで調べた限りにおいて、ぼくの直感は正しかったと確かめられた。つまり、自然状態では、水は流れており、人工状態では、留まっている。

これをもって、自然が良く、人工が悪い、とか「もっと流れろ」、「留まりをなくせ」とか、言いたいのではない。

結局は、この自然と人工も、流れるも留まるも、言葉にすぎず、人間のスケールの反映だよな、と想うのだ。

人は、100年も生きれば、だいたい死ぬ。1日24時間で、1年は8760時間だから、だいたい90万時間のなかに人生は収まる。

その時空間のスケールから、「流れる」と「留まる」は作られる。例えば、90万時間で1メートル移動する液体があったとして、人はそれを「流れる」とは言わないだろうし、「川」とも呼ばないだろう。けれど、例えば寿命が人間の一億倍ある存在が、同じようなさに90万時間で1メートル移動する液体を見たら、「流れる」と言うかもしれないし、「川」と呼ぶ可能性があるのではないだろうか。

もし、あなたがいまぼくが言ったことを、なんとなくでも想像できたのだとしたら、あなたは人の1億倍の寿命を持つ何者かに共感できたことになる。

どうやってそんなことが可能になるのだろう? 驚くことは何もない。一億倍など大した数ではない。だって、あなたに寿命など存在しないのだから。

あなたは、肉体でもなく、感覚でもない。時空間から自由なところにいるあなた。そこを「詩人の位置」と言っている。なぜなら、その位置からしか、言葉はやってこないからだ。

詩人に寿命はない。あってもいい。それはその詩人に任されている。

詩人に身長はない。あってもいい。それはその詩人に任されている。

詩人はあらゆる目盛を引き延ばし、縮め、創り、消す。

詩人は流れてもいいし、留まっていてもいい。何をしても正しく、何をしても美しい。詩人がそれを決めるからだ。決めないでいられることを知っているからだ。

何をするかどうか以前に、詩人は詩人であるからだ。詩人は詩を読むことで詩人になるのではない。詩人である人のすることは全て、詩だ。この順番ででしか、詩は生まれない。

あなたが詩人でなかったことなど、一度もない。もう、どこにも行かなくていいのだ、と諦める勇気だけでいい。それだけで、あなたは詩人であったことを思い出す。

あなたの思い出したいときに、思い出せばいい。ぼくはいつでも、そこで待っている。



むりすんなよ