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並行書簡-26

昨日の投稿を賢さんがとても喜んでくれていたので、書いてよかったなぁと思った。だいぶん前に書いたままになっていて、中々出せないでいたけど、出せてよかった。そんな書きかけの原稿が山ほどあるのだけれど、旬を過ぎると難しくなる。「昨日のアイデアは今日のゴミ」みたいな話を賢さんは前書いていたけど、ちょっと昨晩は違って、「ゴミもタデも好き好きだぜ」などと勢いで続きから書き、なんとか書き切った。偉いのである。


今日はもうだいぶん眠いのだが、賢さんのことを想って続きを書くことにした。偉い。あと、ちょっとプレッシャーを感じるからだ。というのも、続きを書く前に、「ムラブリズム」の序文を書いていて、「並行書簡の前にこれ書いてた」と原稿をLINEで送ったら、「ふーん。」と返事が届いて(早く続きを書けってことかな)と感じたからだ。これは未言語というより、ただの邪推かもしれないが、だとしてもこのプレッシャーを心地よく感じている自分がいる。だいたいは春のせいだろう。


さて、昨日は「書く」という行為が複数の存在によって行われていて、その感覚を「ディクテーション」に例えつつも、「ディクテーション」って言い切ってしまうのもなんか違う、というか複数の存在に分けているのがなんか違和感がある、という煮え切らない話をしはじめたところだった。


先に言っておくと、これは「書く」に限らない。歩くのもそうだし、料理するのもそうだし、人のやることは全部そうじゃないか、と思っている。もっというと、心臓が動くことや呼吸もそうなんじゃないか、と書こうとして少し悩んだ。実際は二つ前の文の「、と思っている」あたりでもう悩んでいた。同じところもあるし、違うところもあるよな。ちょっとその辺りを整理してみたい。


意識と無意識の話を昨晩もした。意識と無意識。これも賢さんの家で出た話題だった。賢さんは「どうして無意識があるんだろう」という問いを台所からぼくに投げかけた。食器を拭きながらだったかもしれない。ぼくはコーヒーをいただきながら、(そりゃ、昼があれば夜があるだろう)と感じていた。そして、その感じに自分で納得したのちに、少し時間をおいて「昼があるなら夜があるように、意識があるなら、無意識がある。それだけだと思う」と簡単に言ってのけてしまった。


こんな風に、自分で考えたり口にしたりすることが自分由来のものでないかのように、新鮮さと驚きをもって向かい入れる感覚が、「ディクテーション」と名付ける理由である。そして、このかなりの確信を持って口にされたことであっても、その論理にしばしばついていけないことが出てくるのも、自分由来でないと感じる理由だ。「昼があるなら夜がある」ことと「意識があるなら無意識がある」ことは、そんなに似ていて、また「それだけ」と言えるほど自明なことなんだろうか。分かるような、分からないような。なので、少し続きを書いてみる。


昼があるなら夜がある。これはその通りで、誰も文句をつけることができない、自明のことだろう。地球で日の出ている時間を一つの単位として「昼」と名前をつけたのであれば、そうではない日の出ていない時間は自動的に「夜」になる。しかし、ここで気になるのが、「『昼』と『夜』を合わせたもの」を表す単語の不在だ。少なくともぼくは知らない。どの言語でも聞いたことがない。あったら教えてほしいのだが、これについて議論されているのを見たこともない。ありそうなのことなのに、それが起きていない。これはなぜだろうか。


「『昼』と『夜』を合わせたもの」を視覚的にイメージしてみよう。果たして、そんなことができるのだろうか。「え、普通にできるくないすか」と答える人もいるだろう。確かに、地球儀を思い浮かべて、片方から照明を当てて、地球儀の半分が明るく、半分が暗い、そんなイメージを持って、「『昼』と『夜』を合わせたもの」に感じることもできるだろう。でも、ぼくはそれが、「『昼』と『夜』を合わせたもの」とは思わない。それは「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」だ。なぜなら、その視点からは、「『もう半分の昼』と『もう半分の夜』を合わせたもの」が見えていないからだ。


視覚的には、「『昼』と『夜』を合わせたもの」をイメージすることはできない。視覚は二次元だからだ。例えば映画を見にいって「いやぁ、やっぱり平面のスクリーンは立体に見えないから面白くないよね」などとは言わない。平面のスクリーンに映されていても、その中で起きていることが現実と同じような時空間を持っているものとして感じられるので、鑑賞の邪魔になることはない。つまり、視覚情報は二次元だと考えられる。二次元に表とウラは存在しない。見えている側しか見えていない(当たり前だ)。しかし、空間は三次元なので、表とウラがある。つまり、見えている側がある時には、必ず見えていない側がある。


「『昼』と『夜』を合わせたもの」を視覚的にイメージしようとしても、視覚的である限り、見えている側と見えていない側が生じる。だから、地球儀のようなイメージは、「『昼』と『夜』を合わせたもの」ではない。それは、「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」だ。それは、「昼」や「夜」の視覚イメージときっかり同じ範囲しか見えていない視座だ。つまり、二次元的な視覚では、「『昼』と『夜』を合わせたもの」はイメージすることができない。


そして、やってみると分かるが、視覚的にイメージできないものを言語化することは極めて難しい。試しに、この「『昼』と『夜』を合わせたもの」に名前をつけてみてほしい。「なに、そんなの簡単だ、とにかくなんでも名前をつければいいのだろう、それっ」と気軽に名前をつける人もいるかもしれない。もしかしたら、そういう人の方が多いのではないか、と思って少し自分の論が心配になったきたけれど、ともかく、少なくとも自分はとても難しい。「『昼』と『夜』を合わせたもの」と、「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」は全く異なる。全く異なるのに、それらを同じものとして扱おうとする自分を発見するからだ。


つまり、「『昼』と『夜』を合わせたもの」を「見」ている自分と、「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」を見ている自分が、異なっていて、また同時にいる、という感覚があり、その不一致が言語化を妨げている、とここまで書いてまた自分で驚愕している。そういうことだったのー!?である。いやはや、書いてみるものですね。


ちょっともう流石に眠いので、ここまでにしますが、いや、楽しいですね。この調子で参りたいものです。


みなさん、いつもありがとうございます。

むりすんなよ