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並行書簡-42

【引用はじめ】

 私は、雄馬に、いつも、前々から、思っていることがある。それは、「お前、誰?」である。

 本当か? 本当に、そう思っているのか? 私は、わかっているくせにわかっていないことにしている可能性がある。“わざと”という言葉が浮かぶが、どうなんだろうか。

【引用おわり】


 そういえば、noteには引用機能がある。なぜそれを今まで使わなかったのかしら。それは、並行書簡の引用と、その他からの引用を区別するためだ、といま決めた。ということで、早速引用機能を使ってみる。


われわれがある言葉の真実性を確信するのは、必ずしも論理的にすぐれているからではなくて、主として、そこに、心を揺り動かす生命の流れが脈打っているからである。(中略)幾世紀にもわたる発展を生きぬいてきた宗教組織の教祖はいずれもみな、その人格に、このような精神的要求に充分応えうる特質を備えていたに違いない。

鈴木大拙『禅』


 これは、宗教がどのように形骸化し、禅がその形骸化に対してどのような態度をとるかを説明するために書かれた文章の一部分だ。現代風に乱暴に言い換えれば、どんなにいいことを言っていても、言ってる人がどんな人かで刺さるかどうかは決まるよね、くらいになるだろうか。それはそうだ。デブが「これなら絶対に痩せる!」とか言ってても、誰も耳を貸さないだろう(貸してることも多いけど)。そこに異論はない。しかし、こと真理については、話は別だ。


 真理に例外はない。属人的な部分はひとつもない。特定の人でなければ通じないようなものであれば、それは真理とは呼べない。だから、仏陀やイエスが、人格にある特質を備えていたに違いない、という鈴木の主張に、ぼくは同意しない。


 人がある言葉の真実性を、真理を確信するのは、その言葉が真理から発されている場合のみだ。真理は属人的ではない。しかし、言葉は属人的だ。真理は肉体なしに存在するが、言葉は肉体がなければ存在できない。


 しかし、矛盾して聞こえるのは承知の上で言うのだが、言葉は、それがどんな言葉であれ、真理から発される。真理を経由しない言葉は、この世にひとつとしてない。それならばどうして、ブッダの言葉は刺さり、デブの言葉は刺さらないのか?(デブに厳しくてごめんね)


 それは、ブッダはもうそこにはいないからだ。ブッダは真理に対して何の摩擦ももたない。いや、正確には逆で、真理に対して何の摩擦ももたない人がブッダなのだ。

【引用はじめ】

 私は、雄馬に、いつも、前々から、思っていることがある。それは、「お前、誰?」である。

 本当か? 本当に、そう思っているのか? 私は、わかっているくせにわかっていないことにしている可能性がある。“わざと”という言葉が浮かぶが、どうなんだろうか。

【引用おわり】

 ぼくは、賢さんです。みなさんです。ゴミに見間違えたあの石です。ピークを過ぎた駅前の公園のハナミズキです。もちろん、伊藤雄馬でもあります。

 肉体を持ちながら、その肉体から完全に自由であること。属人性の完全な排除。いや、真の属人性の発露。世間で属人的だと思われているものは、全て「属界隈的」だ。あなたは、代替可能なものをあなただと思い過ぎている。

 小説風日記で、賢さんが「筒」の話をしてくれた。こちらは、いつもの引用方法を採用しよう。

【引用はじめ】

「『考える』の解釈、っつうとどうしても『考える』をやるのが前提になっちゃうと思うんすけど、『考える』っつうよりも、考えないんすよね。『考える』って、考えを出すってことだと思うんすけど、考えって出すんじゃなくて、出てくるもんであって。雄馬さん今日の予約をするのに料理とかのこと説明とか私書いてたの、ツイート読んでくれたと思いますけど、私そこで『筒』って書いたと思うんすけど、『通路』でも『柱』でもだいたい一緒だから気にしないでいいよ、みたいなやつ。そんでそれで言ってた、エネルギーの通り道としての『筒』って、『考える』だの『思う』だの、そぉゆのやればやるほど『筒』としての性能が悪くなるんすよ。『通路』だろうが『筒』だろうが、空いてんのと混んでんのだったら、絶対空いてる方がよく通るに決まってんすから。」

【引用おわり】


 真理を通す「筒」として最上のものは何か? それはもう「筒」とは呼べない何かだ。名前をつけることもできない何か。それを人は「空」と呼んだり、「0」と呼んだりした。ディクテーションの感覚が完全に消え失せるとき、ディクテーションは完成する。しかし、それはディクテーションを忘れることではない。逆だ。


【引用はじめ】

 しかし、読み返してみると、「私のこの記述」とやらが、そんなに、それを書いた時の私が言うほど、まともでなくて、わかりにくくて、論理的でなくて、誤解の余地のあるものだったのか、わからなくなった。一体、どこまでが“わざと”で、どうなると“わざとじゃない”のかが、私は、わからないのかもしれない。雄馬が来た。

【引用おわり】


 ディクテーションの感覚が完全に消え失せるのは、「いまやってるこれはディクテーションで、”わざと”だ」と完全に醒めているときだ。ひとつひとつの行為がディクテーションであり、”わざと”だと、分かってやること。それも、瞬間、瞬間だ。瞬きだって、ディクテーションだ。

【引用はじめ】

さて、昨日は「書く」という行為が複数の存在によって行われていて、その感覚を「ディクテーション」に例えつつも、「ディクテーション」って言い切ってしまうのもなんか違う、というか複数の存在に分けているのがなんか違和感がある、という煮え切らない話をしはじめたところだった。

先に言っておくと、これは「書く」に限らない。歩くのもそうだし、料理するのもそうだし、人のやることは全部そうじゃないか、と思っている。もっというと、心臓が動くことや呼吸もそうなんじゃないか、と書こうとして少し悩んだ。実際は二つ前の文の「、と思っている」あたりでもう悩んでいた。同じところもあるし、違うところもあるよな。ちょっとその辺りを整理してみたい。

【引用おわり】


 人のやっていることは全てディクテーションだ。10日前のぼくは、並行書簡-26でそう言い切れなかった。今なら、言い切れる。人のやることは、全部ディクテーションだ。しかし、言い切れるようになることと、醒めていることは別のことだ。ぼくはこれから、醒め続けることを選んだ。言い切れるようになった理由は、それだけだ。それは始まりに過ぎない。


【引用はじめ】

なんか、こう、もっと、こんなにはいい感じじゃない、でも、そう悪くもない、そんな終わり方を、私はしたいーーそう書く筆が、どうも乗らないな、と思い、私は気付いた。私は、そもそも、終わりたいと思っていないのかもしれない。

【引用おわり】


 「終わりたいと思っていないのかもしれない」と感じるのは、終わりを予感しているからだ。「0」が完成しようとしているからだ。

 始まりの、終わりの、予感がある。


むりすんなよ