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並行書簡-28

また深夜になってしまったが、この時間に執筆するのは嫌いではない。賢さんの並行書簡-27を読み返す。ナンバリングを確認するためと、なんとなく読み返したかったからだ。すると、予想していたように、少しトリッキーなのを確認した。


昨晩、自分の書いた回(26回)とは別に『お裾分け』を今朝、書いた。賢さんは、これも「並行書簡だ」と感じ、これに並行して、27回を書いた。実は、『お裾分け』はnoteからはもう消してしまった。少し物言いがあったからだ。


プライベートのことなので詳しくは書かないが、たいしたことではなく、当然の感想でもあった。それでも少し凹んでいた。いや、だいぶん参っていた。こうも簡単にダメになるのかぁ、というくらいけちょんけちょんになった。実家の山に篭ってひっそりと消えてしまおうか、とまで考えた。そんな風にしょげた後、布団にしばし横になり、起き上がって瞑想して、呼吸を意識的にした。そしたらいつのまにか何事もなくなった。そのあと、美味しく夕飯を食べ、お風呂に入り、夜の散歩をして、これを書いている。


この一連の出来事は、この執筆のために起きたことのように感じる。前回の自分のターン(26回)と、イレギュラーに差し込まれた『お裾分け』、それに並行した賢さんのターン(27回)を、橋渡しするための経験なんだろう、そんな直感がある。それを書いてみる。長くなりそうな予感がして、少し怯んでいるが、なるようになるだろう。


まず、前回の自分のターンでは、地球儀を例にして、「『昼』と『夜』を合わせたもの」は、視覚的にイメージできず、言語化も難しいと述べた。「難しい」と書いたが、これは自分だけかもしれないと留保した。「『昼』と『夜』を合わせたもの」をテキトーに名付けることは、たぶん多くの人には造作もないことだと気づいたからだ。いや、分かんない。どうなんでしょうか、みなさん。ともかく、ぼくにとっては難しいのは間違いない。詩人であるぼくが、それを許さないからだ。


詩人は言葉になる前の領域に住まう。中原中也は「芸術論覚え書」という小論の冒頭で、こう書いている。


【引用はじめ】

一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。

【引用おわり】


中也はその領域を「名辞以前」と呼んでいる。名辞とは現代風に言えば名詞のことだ。「手」という名詞を言う前に感じている〈手〉。ここでは便宜上、名辞以前を〈〉、名辞以後を「」で表すことにしよう。中也は詩人や芸術家は名辞以前に生きる必要があると説く。この小論は断定調で迫力があり、なんだか気圧されていつのまにか説得されてしまう。その論の軸になる名辞以前の感覚も、同じく断定的に自明のものとして語られているのだが、分かるような、分からないような、確証が持ちにくい領域でもある。


なので、自分はその名辞以前の世界を別の言い方で説明しようとした。その結果、得られた感覚が地球儀の例だった。もう少し抽象化すると、名辞以前を球として感じるのだ。幾何学的に捉えると理解しやすいのではないか、と考えての表現でもある。


地球儀や球の例は、名辞以前を表現する、比喩のひとつに過ぎない。しかし、それはぼくにとっては比喩ではない。比喩なのに比喩ではない。矛盾していて、ややこしいと思う。なぜこんな風に言うのかといえば、名辞以前の感覚は千差万別で、十人十色だからだ。ぼくの球という感じ方が全てではない。球の比喩は、これを読むみなさんが、完全に共感できるものでないことは百も承知だ。けれど、名辞以前の領域を自覚する人(例えば中原中也とか賢さんとか)は、球の例えに完全に共感できなかったとしても、本質的にはぼくが何を伝えようとしているかを理解し、ぼくの伝えようとしていることを、別の表現で言い換えることができる。なぜそれができるかと言えば、その人たちは、ぼくと同じ視座を共有しているからだ。その視座においては、少なくとも五感としてのぼくやあなたは、消えている。その意味で、この視座は固有のものではない。ちなみに、肉体ではなく、五感としてのぼくやあなた、だ。その違いについては、またそのうち登場するだろう。


その共有されている視座というのが、ぼくの言い方でいう、「『昼』と『夜』を合わせたもの」が「見」えている視座だ。「見」るとしたのは、見ると区別するためだ。見るはスクリーンであり、二次元の情報だ。しかし、「『昼』と『夜』を合わせたもの」である三次元のものを、取りこぼしなしに一度に「見」る視座が、名辞以前の領域である。


あんまり次元の話をすると色々な意味で嫌だと感じる人もいそうなので簡潔に言うが、これが五次元の視座であり、非二元論的な意識の源だ(なぜ五次元かは自分で考えてください)。この視座に、この意識に、自覚的に入り、またあることができれば、ぼくが今日経験したような、どうしようとなく凹むことがあっても、比較的早くリカバリーできる。いや、ハッキリ言おう。どんなにネガティブな感覚、感情、思考でも次の瞬間には分離して感謝になり、忘れてしまうことができるのだ。あぁ、やっぱり繋がった。すごいな、本当に。


ぼくは、『お裾分け』でこんなことを書いた。


【引用はじめ】

お金のない時期はいろいろな人に助けられながら生きている。

最近はぼくがお金を稼ぐか借りるかして、しのいでいる。

彼女は働きたくないと涙を流し、その直後にコンビニでアイスを買って、美味しそうに食べている。

一瞬苛立って、まぁそんなもんか、と流れていく。

【引用おわり】


一昨日だったか、彼女はうずくまって「働きたくないぃ」と泣き言を言っていたその直後の気分転換の散歩で、用事を済ますために行ったコンビニでいつの間にかアイスを買ってケロッとしていた。そのアイスを買ったお金はぼくが渡したものも含まれていた。


「働かざるもの、食うべからず」


という恐ろしい言葉があるが、それはそのときぼくの中にも信念としてあって、てへぺろでアイスをぺろする彼女に対して苛立ったのだろう。それが次の瞬間には「まぁそんなものか、と流れていく」までの間に起きているのが、視点の変化であり、視座の変化だ。つまり、「苛立ち」が<働かざるもの、食うべからず>になり、消えた、というプロセスがあったのだ。もう少し丁寧に書いてみよう。


てへぺろアイスへの「苛立ち」は名辞以後だ。一般的な感覚も感情も思考も、全て言語の中にある。つまり、名辞以後だ。地球儀で言えば「昼」もしくは「夜」なのだ。「苛立ち」が「昼」とすれば、そのウラには必ず「夜」がある。反意語と言ってもいい。例えば「立派」とかどうだろう。「きちんと働いて、稼いで生きていて、立派だね」の「立派」だ。「苛立ち」を見えているとき、その反意語である「立派」も、見えていないだけで、存在している。それは、「昼」だけを見ていた視点では気づけない。だから「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」を見るように、視点をずらす必要がある。照明を背にしていたところから、90度ずれた角度。つまり、並行を作る角度だ。すると、「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」が見えてくる。隠れていた「立派」が見えることで、「苛立ち」も「立派」も同じものの別の側面であることが分かってくる。


そうなると、自分が名辞以後の視座にいることが自覚できる。二次元的にしか見ていない自分に気づくのだ。あとは、名辞以前の領域で「苛立ち」と「立派」を地球儀として、つまり球として捉える、つまり視座を上げる。〈『昼』と『夜』を合わせたもの〉のように〈『苛立ち』と『立派』を合わせもの〉として捉えるのだ。すると、〈『苛立ち』と『立派』を合わせもの〉がぐにょ〜と合わさり言葉にするのが難しい何かに変わる。それを直感的に、詩を詠むかのように日本語に翻訳すると、例えば〈働かざるもの、食うべからず〉のようになる。すると、これはまさにぼく自身がどこかで作り出した信念だったことを思い出す。つまり、あたかも相手から与えられたかのように感じる「苛立ち」は、〈働かざるもの、食うべからず〉という自分で作り出した信念の一側面、二次元的な投影だったと気づく。すると、その信念は役目を終えたかのように、消えて、いつのまにか勝手に忘れてしまう。本当に、跡形もなく、記憶から消えてしまう。


これが、ぼくの中でほんの一瞬で起きていることの言語化だ。そしてこれは、みなさんの中で起きていることでもある。


『お裾分け』では、こんな台詞も書いた。


【引用はじめ】

「ゆうさんがわたしに苛立つのは、自己を投影しているからだよね」

【引用おわり】


自分が相手に対して何かを感じる。それは名辞以後のことだ。その背後には、名辞以前に潜む詩人にしか言語化できない〈信念〉がある。どんな感覚も感情も思考も、その〈信念〉が見せてくれている。それを彼女は「自己を投影している」と表現した。というより、ぼくがいつもそう言っているのを、リマインドしてくれた。意識的に生きていないと、つい忘れてしまうのだ。そして彼女の一言で思い出し、感謝した。詩人としての自分が息を吹き返したからだ。


詩人であるぼくはいつも、目の前にいる人は、ものは、風景は、自分の〈信念〉を映し出す鏡であり、生を彩る名辞以後の「感覚、感情、思考」を与えてくれるありがたい存在であると知っている。その位置では、感謝しか起こりえない。何を見ても、「そこにいてくれて、ありがとう」しか感じなくなるのだ。それは、名辞以前と名辞以後がほどよく循環している時に達成される。「昼」を見るわたし、「夜」を見るわたし、「『半分の昼』と『半分の夜』を合わせたもの」を見るわたし、〈『昼』と『夜』を合わせもの〉を「見」るわたし。それらの視点、視座がバランスよくあるときに、詩人はやってくる。


この意識をぼくは「詩人の位置」と呼んでおり、全ての人にこの意識を体得してもらおうとするお節介が、「人類総詩人化計画(The Poet-ing All Humanity Project)」だ。全ての人が、全ての存在を、贈り物に感じられる「詩人の位置」で生きるとき、その計画は完遂する。キャラクタと、プレイヤと、プログラマの自己を等しく発揮できるようになる、と言い換えてもいい。ぼくのあらゆる活動は、そのためにデザインされている。がはは、どうだ、怖いだろう。


賢さんのスタイルだが、引用して筆を置こう。今日も、いつも、ありがとうございます。楽しい執筆でした。


【引用はじめ】
 “だから”というのもあり、私は、言わない。会計を済ませ、帰り際に、「うまかった。本当に、うまかった。またすぐ来るね。うまかったよ。」と言う。店主は、「ありがとうございました。」を「ーーございゃした。」に近い発音で、言う。その時の流れにもよるが、私は、「こちらこそ、ありがとう。」と言う。これは、「ここで、こうして、あなたが、生きていることが、私は、とても嬉しい。本当に、ありがとう。」という意味だ。

 しかし、私は、言わない。言っても、「またまた、おもろいこと言う人でんなぁ。」となるかもしれないし、そうでなくとも、そういうのは、口に出して本人に言葉で言うよりも、私自身がそう思いながら生きることが、肝心な気がする。「そうそう。“受け取る”って、そういうことだよ。」ということを、私は今、“ディクテーション”、あるいは、“コミュニケーション”において、“受け取った”。
【引用おわり】

むりすんなよ