見出し画像

並行書簡-34


昨日の朝、清掃バイトの面接に行くために、比較的早く、でも社会的には普通か遅めに起きて、身支度をした。歯を磨き、顔を洗う。ヒゲは昨晩のお風呂で剃っておいた。鏡を見ると、そこには見慣れない男の顔があった。

(ふーん、こんな仕上がりか、悪くないかな)

もちろん、その顔は伊藤雄馬であり、ぼくはその顔をなかなかに見慣れている。しかし、その顔が見慣れない顔に映る瞬間はぼくの人生には普通に存在する。そのとき、ぼくはよく死ねたのだな、と納得する。

【引用はじめ】

 先程、約二十日ぶり、かなり久しぶりに、部屋の雑巾掛けをした。床の表情が、以前の雑巾掛けと比べて、ずいぶんと変わった、という印象がある。雑巾掛けの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。という、今書いた文の「雑巾掛け」には、ほとんど、どんな名詞も、入ると思う。

 料理の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 演奏の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 スピーチの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 施術の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 執筆の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 接客の結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

 雑巾掛けの結果は、私が変わると、非常にわかりやすく、変わる。

【引用おわり】

わたしは、この引用で繰り返される「私が変わると、」の部分を「私が死ぬと、」に置き換えられると、知っているし、分かっている。私が死ぬと、何もかもが非常にわかりやすく、変わる。

試しに死んでみたらいい。息を止めて、1分もすれば、あなたは少し、ほんの少しだが、間違いなく死に向かう。呼吸が懐かしくなるにつれ、耳鳴りがするかもしれない(わたしは、さっきやって、耳鳴りがした)。そして、自分が何も持っていやしないことを思い出す。お金も服も、幸せも悩みも、家族も友人も。酸素に恋焦がれている間は、自分以外に、何もなくなり、生まれ変わる。自分? そのときの自分は、何を指すのだろうか?

肉体の自分と、感覚の自分は、違うとどこかで書いた。少し前まで、ぼくは肉体であったことなど、一度もないと人前で話していた。そして、それは本当だった。肉体として自分がいれたことなど、一度たりともない。それは、つねに感覚の自分だった。それは今も変わらない。しかし、いまは少し違う言い方になる。自分は肉体でいれたことはないが、自分は肉体なしでいれたこともない、と。

2020年、国際疼痛学会の痛みの定義が41年振りに改訂された。

「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験」

これまでの定義と異なるのは、組織損傷がなくても痛みは起こりえると明記ことだ。これまでは、傷がないと、痛みはない、そういう見解だった。しかし、そうではない痛みも、たくさんある。例えば、幻肢痛だ。脚をなくした兵士が、夜中になくした脚が痛んで寝れない、と訴えることがあるらしい。肉体としてはもう存在しない脚が痛む。もっと身近に、何かに恋焦がれるときには、胸が痛んだりもする。それも痛みだ。それは別に、心筋炎とかではない。肉体としての心臓ではなく、心の動きが痛みを生み出している。肉体と感覚が別であることの、何よりの証拠だ。

肉体は自分ではない。肉体は借り物だと言われることがある。その通りだ。肉体は、自分では、ない。そして、それは、肉体だけでは、ない。目に映る全てのものが、借り物だ。スマホ、電気、充電器、床、ガムテープ、ビニール袋、棚、机。本当に、目に映る全てのものが、借り物だ。そして、その目に映る感覚も、借り物の肉体を通じて感じるしかない。だから、感覚も、借り物だ。

本当に、見渡す限りの、借り物!

その中で、自分がどれだけ裸の王様を演じていたかは、1分ほど息を止めれば、ほんの少し死に向かえば、気づけることだ。しかし、それだけ簡単に、はっきりしたものでも、日常に戻れば、すぐに忘れ去られてしまう。

「全部借り物なのは分かったけど、周りのみんなはそうは考えていないし、この世界ではどんな物にも所有者がいて、値段がついているから、お金が必要で、、、」

借り物を借り物だと分かりつつも、自分の物だと言い張るのは、泥棒だ。借りパクってやつだ。この世の中には、借りパクされたものでいっぱいだ。誰もが「周りがそうしているから」という理由で、自分に借りパクを許している。あなたのその手でさえ、あなたは借りパクしている。それは契約や権利書の不在がもたらしているのではない。単にあなたが、死を忘れているからに過ぎない。

あなたの所有物だと思っている物が、ことごとく借り物だったと気づくこと。それが死だ。そして死は、あなたに訪れる準備がいつでもある。

そして、この死が訪れることを自分に許した人から、生が始まる。肉体が、あなたとの関係を取り戻す。肉体でも、感覚でもない、あなたとの関係を。

そうすれば、あなたは毎朝、見慣れない顔を見かけることになるだろう。それは、字面よりもずっと気分のいいことだ。どのくらい気分がいいかといえば、例えば、髭を剃るように、ゴミを拾うくらい、とかね。

むりすんなよ