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並行書簡-31

深夜だけど、いつもより少し早い。なぜなら、明日の朝にバイトの面接があるからだ。

並行書簡の番外編的な位置付けを賢さんによってされた『お裾分け』のなかに、パートナーの「働きたくないぃ」からのテヘペロアイス(さっきまでお金はなくても働きたくなくて泣いてたのに、お金を使ってアイスを買って食べてケロッとしていること)の話があった。

それを読んだ賢さんは、おそらくそんなぼくらを見かねたのだろうか、並行書簡-29で賢さんがパートナーとラーメン屋さんの「あわのうた」に行っているのを知って、「ラーメン食いて〜」と言ったぼくに、「来い!あわのうたはいつもオレが出そう💰👛👍🏻👍🏻👍🏻👍🏻👍🏻👍🏻」とめちゃくちゃ頼もしいことを言ってくれた。

前回も、賢さんの家に遊びに行ったとき、賢さんはぼくとパートナーの2人分のお昼ご飯を用意してくれたし、「あわのうた」の代金を代わりに支払ってくれた。さらに干し芋や干しかぼちゃ、月のしずくという高級なお水に、有精卵までくれた。椀飯振る舞いとはこのことだ。

こんな風な『お裾分け』への諸々の反響によって、「働きたくないぃ」と涙したあのパートナーが、どういう風の吹き回しか、なんと単発の派遣で働くことを決めたのだった。あの涙はなんだったのだろう。人って面白いですね。

そしてぼくも、なんとなくつられて、清掃のバイトをしてみよっかな、という気になり、明日はその面接なのだ。色々な仕事が世の中にはあるけれど、ぼくは掃除が一番性に合っているかもしれない。

はじめてムラブリ(タイやラオスの少数民族、ぼくは彼らの言葉を15年くらい研究している)の居住地にフィールドワークへ行って、でもムラブリ語もタイ語も話せないから(なんでそんな状態で行ったのかは拙著『ムラブリ』を読んでください)、調査もままならずけちょんけちょんな日々のなか、ぼくが精神安定のためにしたのも、掃除だった。明日、世界が終わるとして、その時にぼくがするのは、きっと掃除だろう。なんか、かっこいいこと言い出したな。

かっこいいこと言い出したついでに、もう少しかっこよさそうなことを話してみよう。ぼくの行動指針は気まぐれで、ほとんどないに等しいのだが、定期的に採用するものがひとつだけある。それは、「いま100億円あって、明日死ぬとしたら、それする?」である。

経済的に何も問題がなく、かつ残された時間がもうないとしたら、それをやるか? という問いだ。「これをしたいと感じる。でも、これは本当に自分のしたいことだろうか?」、そんな迷いのあるときに、この問いを自分に預けてみることにしている。すると、これまでの経験では100%「やらない」という答えになる。それらのほとんどは、ぼくの場合だが、このままのぼくではいけない、ここではないどこかに行かなければならない、という信念に突き動かされた焦りによって生まれていた。「いまここ」からの逃避は、いつもドラマティックに見える。そして人は、ドラマティックな人生を送るのが、とっても好きなのだ。

明日面接に行く予定の清楚のバイトは、「いま100億円あって、明日死ぬとしたら、それする?」という問いに対して、「ん〜、どっちでもいいかな、でもやったら気分はよくなりそう」くらいの感じになる。お金が発生してもしなくても、それは変わらない。

言う機会がないから言ってないだけのことだけれど、ぼくは散歩のたびに路上のゴミが目についたら拾っている。賢さんが並行書簡-29の冒頭あたりで「雄馬は地球になっている」みたいなことを言ってくれていたけれど、そんな大袈裟な〜とは思いつつ、ゴミを拾いたくなるときは、うん、ぼくは地球だよ、もちろん、という気分に、なっている気がする。これは名辞以前の領域に馴れ親しむと、いつのまにかそういう感じになる気がする。理屈はよくわからない。

路上にゴミ捨てるな!という怒りはないし、地球環境が〜とかいう問題意識もない。髭が伸びてきて、剃ったらスッキリするとか、しばらくお風呂に入ってなくて髪がベタベタしていて、お風呂入ったらサッパリする、くらいの感じに近い。ゴミを路上に捨てるなんて許せない!という台詞を聞くと、髭が伸びるなんて、許せない!みたいに聞こえて、それを言っている人が可愛いくみえて可笑しい。黙って剃ったら気持ちいいよ、とにこやかに思う。

じゃあ、黙って路上のゴミ拾いしとけよ、と思う方もいるかもしれない。バイトじゃなくてもいいよね。まぁ、確かにそうだ。だけど、あえてお金を受け取る機会にした。なぜか? 「100億円ないから」だ。もっというと、お金があればお金でお裾分けできるからだ。

ぼくはいま、100億円どころか、1円も持ってない。いや、それは嘘だ。流石に口座には少しある。確かめてこよう。177円あった。この金額では引き出せないので、まぁ、実質1円も持ってないことになる。素晴らしい!ある種の達成感を感じる。なぜなら、明日、ぼくが生きて目覚める保証はひとつもないからだ。お裾分けする裾がない。やり切った!これは強がりではない。ちょっと酔っ払っているけど、本当にそう感じている。

お金は動いてこそ、価値がある。たった1円でも、1億人が受け取り、渡せば、1億円の機能を担ったことになる。お金が動けば動くほど、人は豊かになるのだ。なんとも素敵な発明ではないか。ぼくはそのお金の流れに対して、摩擦係数を可能な限り低くするように、心がけるようになって久しい。

今日も、『ムラブリ』の試験使用料が振り込まれたので、欲しかった本を買い、見たかったYouTubeの有料コンテンツを買い、パートナーにお金を渡し、お金を借りていた人にほんの少しだけお返しし、なんとなく頭に浮かんだ友人や、誕生日だった友人にプレゼントを送った。元奥さんにもちょっとしたプレゼントをLINEギフトで送ったのだが、「ありがとう。でもスマホを持ってないので、養育費をお願いします」と言われてしまった。正論だ。

そんな感じですってんてんなのだが、来週は久しぶりに会う友人との予定がいくつかあるし、泊まりがけのちょっとしたお出かけもある。そのためにはお金があった方が、より楽しいだろう。だから、路上のゴミ拾いでもいいのだけれど、明日は清掃バイトをしようと思う。スッキリサッパリできて、友人と楽しく過ごす準備にもなる。最高じゃないか。

この執筆も、路上のゴミ拾いみたいなものだ。賢さんをはじめ、友人たちへのお裾分けのつもりで書いている。これから出会うかもしれないあなたへのお裾分けでもある。だってぼくは、「いま100億あって、明日死ぬ」んだから、お裾分けしか、できないじゃないですか。

なので、明日のバイトの面接は、なんとなく行ける気がしている。いや、思い上がりかもしれない。見事に寝坊して、遅刻するかもしれない。もう2時25分だ。まぁ、10時からだし、大丈夫だろうとは、思うのだが、はてさて。

むりすんなよ