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2024/05/14


ここ数日眠くて眠くて、ほとんど寝て過ごしてるので、書くのが遅くなっちゃった。依頼をくれてたのにごめんね。

おーちゃんのセッションを受けた時の描写で、ひと段落のうち、カフェに2回到着してるけど、これはどういうことだ、分析してほしい、と注文をもらっていたのだけど、昨日の賢さんのnoteで「時間に無頓着なのはよくあることか」と自己解決したっぽいのだけど、補足ってことで、思いついたことを書いてみるね。

最近、映画のマトリックスを見直してるんだけど、賢さんは見たことあるかしら? 人類と機械の戦争で、人類は仮想現実の中に囚われてますよって話ね。人類と機械とプログラムの三つ巴の話なんだけど、プログラムのオラクルっていう「預言者」が出てくるのね。彼女は主人公が花瓶を割ったりするのを事前に言い当てたりするだけでなく、その人の「役割」について助言したりする。その人のすでになされた無意識の「選択」をオラクルは見えるからだ。

彼女がなぜその力を持っているかは、作中では直接語られないけれど、注意深く観るとヒントがあるように思える。それを繋ぎ合わせると、その力はおそらく、彼女が本来いた世界では普通のことだったんだろうな、とぼくは考えている。マトリックスをじっくり考察した人はたくさんいるだろうから、もっと上手な説明はたくさんあると思うけど、まぁ、考察のひとつだと思って聞いてみてよ。

おそらく、彼女は前のバージョンの仮想現実のプログラムなんだよね。仮想現実は何回かアップデートされている。アップデートは「不満」によって行なわれる。「不満」は人類からだったり、プログラムからだったりする。この辺りは明示的に話される。こっからは予測。おそらく、前のバージョンでは、これから起きることや何やらが、人類もプログラムもみんな分かった状態で生きていたようだ。なんでも思い通りってわけ。それはある意味では理想郷だけど、結局は人類と機械の戦争が終わる建機は訪れなかった。

プログラムのオラクルは、それに「不満」を持った。彼女は作中で最も「自由」を欲した存在だ。理想郷は彼女にとって地獄だった。そのオラクルの「不満」によってアップデートされた仮想現実が、映画マトリックスの舞台だ。このバージョンでは、人類もプログラムも「自由意志」を持っている。思ったことが何でも叶う理想郷ではなく、無意識にした「選択」の「結果」を経験することで理解する、そのプロセスが生きがいになる。まさにオラクルの求めた世界だ。99%の満足度らしい。なかなかの出来だ。でも、完璧じゃない。主人公ネオ、敵役のスミスという「不満」が現れた。その「不満」をアップデートする物語がマトリックス3部作になる。

オラクル自身は、古いプログラムで、本来ならば新しい仮想現実にはふさわしくなく、削除される存在だ。彼女の力は、前のバージョンの名残りで、人やプログラムの無意識の「選択」を見ることができる。それはこのバージョンではチートにだろう。でも、オラクルには「結果」が分からない。それは彼女のもともとからの欠陥かもしれないし、望みだったからかもしれない。ともかく、彼女は「選択」を見れた。その人の無意識の選択を伝えること。それが「預言」になった。

このぼくの手前勝手の妄想は、賢さんから注文があった段落を読み解くのにちょっとした補助線になると思って書いた。つまり、無意識の選択を理解するためにこの文章は書かれている、と捉えると、時系列の乱れは当然の帰結として受け取れるからだ。

その箇所を引用する。

【引用はじめ】
 おーちゃんとのセッションが始まる前に、私とパートナーと雄馬さんの三人が、セッション会場が併設されているカフェに到着しました。ランチをそれぞれ注文し、それを待ちながらの、歓談のひとときでした。ゴールデンウィークが明け、人出は落ち着いていました。道路に面したガラス張りの店内には、よく晴れた五月の陽光が差しています。窓が開いて、風が抜けるのも心地よいです。私とパートナーは、しょっちゅう来ています。埼玉県から三時間近くかけて茅ヶ崎までやってきた雄馬さんは、初めての来店です。駅に迎えに来たパートナーの車に私も雄馬さんも乗り込み、カフェに向かいます。助手席に座る私は、リュックサックから漫画本を取り出し、「さっき大船で乗り換える時に買っちゃった。」と言って、自慢げにはしゃいでいます。運転席と助手席の間から、後部座席に座る雄馬さんがそれを目に留めて、「それ、友達の友達が描いてる。他人だけど。」と言いました。私は、雄馬さんの言った「他人だけど。」の意味が、聞いてすぐに確定できずに、それが海なのかどうかもわからない海に放り出されました。ですが、どうしても確定させたいというわけでもないので、確定はさっさとあきらめて、「会うなりやってくれんじゃねーかこんにゃろ。」とだけ思って、それでその会話は終わり、ちょうど店に到着しました。運転してくれているパートナーが道を間違えて、少し時間がかかったからこそ、この会話が出来たんだな、とも思いました。パートナーは、茅ヶ崎に十年以上住んでいますが、そしてそのカフェにも何度も行っていますが、今でも、道を覚えていません。大通りに面した、私にとっては、わかりやすい場所にあるお店です。「私は右左がわからなくて。」とパートナーが言いました。私はフロントガラスの向こうに広がる、前回来た時にも間違えて通った道の景色に、パートナーの発言の説得力を感じ、「あぁ、そうだねえ。」とか、「いいねえ。」とか、そんなことを思って、嬉しくなりました。雄馬さんが「右も左もないですからね。」と言いいました。パートナーは「そうでしょ? どっちから見ての右なのかとか、あっちから、こっちからとか、わけわかんないのよー。」と言いました。私は、指笛を吹いて盛り上げたかったのですが、吹けないので、指笛を吹いている可能性を感じながら、ただただ、その場を味わっていました。
【引用おわり】

冒頭で、カフェに到着したぼくらの様子が描かれている。このまま「妊娠」の話になっても構わない。でも、それだけでは満足できなかった。この日に集まったぼくらの無意識の「選択」を理解するためには、カフェに到着するまでの車中での会話も必要だと気づいた。

それは、「カフェに到着した」と書かれてはじめて感じられる不足感、取りこぼした感によって理解させられる。多くの場合、人はこれを推敲によって解決する。つまり、時間軸を揃えるために、段落の初めを駅でのシーンに書き換える。

しかし、賢さんはそれをしない。不足感を感じさせる役割を担った「カフェに到着した」はそのままに、その不足が何かを語り始める。自分の内的プロセスを変質させずに筆を進める。

セッション後に、おーちゃんは賢さんに向かって「素っ裸なんだもん」と言った。ぼくも同じことをここで言わされるハメになる。あんた、素っ裸なんだわ。マトリックスで主人公がオラクルにやってもらうことを、つまり無意識の「選択」がもうなされていることに気づくことを、賢さんは書くことによってひとりでやっている。素っ裸から、服を着て、服を脱いで、素っ裸にら戻るプロセスを、ひとりでやってるのを見せられて、「俺が何やってるか教えてよ!」とぼくは言われているので、「ええと、服を着て脱いでました、はい」と言うしかない。「逆裸の王様」をやらされている気分だ。何のプレイなんだよ、これは。

おーちゃんに興味のある方は以下のリンクからどうぞ💕


むりすんなよ