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上級国民と下級国民

アメリカの学校に通っていた頃の私は、「差別」が大嫌いだった。このせいで、母とよく喧嘩をしていた。

母は人種に対する偏見を強く持っており、その偏見だけで人を判断することがよくあったからである。

例えば高速道路を入っていて、隣の車が音楽をガンガンに鳴らしていたら、「あれは黒人に違いないよ。安っぽい車ね、余りお金は無いのよ」という。

道にユダヤ人が歩いていたら、「彼らはきっと金融業をやっているのよ。ユダヤ人にはお金持ちが多いのよ」という。

私は母のそのように決めつけるたびに「見た目だけで何が分かるの!そんなの差別じゃん!」と機嫌を悪くしていた。

あの頃から10年が経ったが、今でも人を見た目だけで判断するのは正解とは限らないと思っている。しかし、今なら、母の発言の背景にある考え方が理解できるのだ。

理由は2つある。1つ目は、火のないところに煙は立たないから。2つ目は、世の中には『上級国民と下級国民』がいるから。

1つ目について。高1の時のフランス留学や大学入学後に色々な国を訪ねた経験を通して、私は、世の中の多くの人が、いろんな国、いろんな人種の人に対して様々な偏見を持っていることを学んだ。そして、その偏見があながち間違っていないことも気づいてしまった。

私の大親友の黒人の子の家族は全員音楽を大音量で聴くし、私の友達のアメリカ系またはカナダ系中国人は軒並み金融業を営むし、クリーニング屋さんはいつも韓国人だし、インド人の家はどこを訪ねても香辛料の香りがするし、世の中に存在する偏見を裏切ってくる人が全然現れてくれないのだ!

もちろん数は少ないが例外はある。しかし、偏見が生まれるのは、ちゃんと偏見が生まれるだけの理由があるのだろう、と私は実体験を持って理解した。

2つ目について。高校を卒業して、私は、日本には大きく国民を分断している「何か」があると感じるようになった。

この感情を『上級国民/下級国民』という本が上手に代弁してくれている。この本では、日本には上級国民と下級国民がいて、下級国民は全くそこから這い上がれない構図になっている、と説いている。

これは私の実体験にも紐づけることができる。

例えば、私の周りの人たちは中高から名門私立に通い、塾に通い、一流大学に入り、一流企業への就職を果たし、同じような人と結婚し、ずっとそのような人生を代々続けてきたような人が多い。

彼らは高時給バイトまたは親からのおこずかいで毎日大学の友人と外食を楽しみ、長期休みにはパーっと旅行し、趣味の充実にも余念がない。

けれど、私が小学生の頃通っていた地元の水泳クラブの友達の多くは、地元の中学に通い、不良と仲良くなり、高校卒業後就職または専門学校へ。就職し結婚、代々そのような人生を繰り返している。

時給1000円で身を粉にして働き、楽しみはタバコや居酒屋で飲むこと。時にはできちゃった婚をして稼いだお金は養育費になっていることも。

大学の友人の話でも似たようなことを良く聞く。成人式で会った旧友たちと「話が通じなかった」なんて話も聞いたことがある。

仮に私が上級国民だったとして、下級国民を「下級」として見下す=差別する、ことは絶対に間違っている。しかし、この世の中が分断されているのは確かなことだと思う。

だから、自分の人種と、他の人種、というように、分けて考えた母の思考も、悲しいけれども、今なら理解できる気がするのだ。

この分断された構造をなくすことはできるのか。偏見は持つべきでないのか。議論は尽きないが、今日はここで終わりにする。


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