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英傑たちの物思い 資料メモ

中高生の頃、時代劇ドラマをテレビで見ながら、私もそんな小説が書きたいと思っていました。

結果そんな才能はなかったわけですが、ネット時代になってせっかく情報を集められるようになったので、2001年の9.11同時多発テロ以降、混迷を極める世界情勢に加え、2011年3.11の東日本大震災からの相次ぐ地震、2019年末に始まった疫病などと災厄の多い近年の日本において、やはりどうしても享保末年から寛政までの江戸後期の情勢が非常に重なるのではないかという従来の思いが消えません。

どうしてこの時代に私があの大規模テロの時から興味を持ったか、自分でももう一度見直して楽しむために、メモを残したいと思います。

ちなみに学校でよく習うのは一揆の方ですが、一揆は苛政をしく代官の罷免など目的を一致させて主に地方の村役人や農民が訴えを起こしたものですが、打ちこわしは江戸・大阪の街中でも起こった暴動のような位置づけのようです。

宝暦・天明の文化期の徳川家治将軍は吉宗の孫で、松平定信も吉宗の孫です。

何か書くなら曲淵景漸か柳生久通だなと思っています。あまりに人物が素晴らしすぎるとその苦悩が凡人には想像できないからです。

景漸と鎮衛は当時人気を二分した名奉行でした。

天明期前後の事件の時系列

1725年 享保10年曲淵景漸誕生 ー 1800年5月23日 寛政12年死去

1737年 根岸鎮衛誕生 ー 1815年12月4日 文化12年死没。豪農出身の噂。御家人株を買った。耳袋の著者。下級幕能吏出身のくだけた人物。

    10月29日久世広民誕生ー1800年1月17日死没。

1743年 寛保3年。曲淵景漸が兄景福の死去に伴い家督を継承。18歳

1748 竹田出雲らが脚本した人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大阪で上演され大ヒット。すぐに歌舞伎の演目にもなり繰り返し上演される。

1750年 蔦屋重三郎誕生ー1797年死没。

1758年 根岸鎮衛、根岸家の末期養子として22歳で家督を継承。

1761年 徳川家重死去。家治将軍。曲淵景漸41歳で大阪西町奉行

1763年 根岸鎮衛、評定所の留役(最高裁判所の判事のようなもの)

1769年 明和6年。景漸が、江戸北町奉行に就任 44歳。18年間にわたって奉行職を務める

1770年~ 東北地方で冷害。

1771年 景漸が杉田玄白らに許可して小塚原刑場にて罪人の腑分け(解剖)を行った

1772年 2月29日(4月1日)。明和の大火。出火元は目黒の大円寺。真秀という坊主の放火。日本橋地区壊滅。死者は1万4700人。行方不明者は4000人を超えた。浅草本願寺、湯島聖堂も被災。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼した。

1762年~1772年 米・金ともに赤字。

1775年 久世広民、長崎奉行就任。

1776年 根岸鎮衛、42歳で勘定吟味役。

天明の大飢饉 1782年(天明2年)~1788年(天明8年)

1782年 米価が高騰し盗賊、放火が増えたので、久世広民が近隣の諸侯に依頼して米価をおさえた。

1783年 天明3年。3月12日(4月13日) 岩木山噴火(青森県弘前市)。

工藤平助(仙台藩医)が「赤蝦夷風説考」を著し、ロシアとの貿易や蝦夷地開拓の必要性を説き、田沼意次に献上

田沼意次7年の倹約令を出す。

   7月6日(8月3日) 浅間山噴火(長野県北佐久郡軽井沢町から群馬県吾妻郡嬬恋村)。根岸鎮衛、8月28日に江戸を立ち、9月2日に上州渋川に入り、被災した村々を巡視。9月28日武蔵の国本庄宿にて川越藩役人らと協議、幕府の救済方針を伝えた。

9月 久世広民が江戸にも戻るとき町民が見送って報恩に謝するものがあったほど慕われていた。

この前の3年間は異様に温かい日が続いた。

杉田玄白『後見草』によると推定2万人の死者。しかし、弘前藩は死者が十数万人に達したとも伝えられる。

飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人あまりの人口減を招いたとされる。当時の全人口は3千万人ほど。

1784年 天明4年。

3月12日 久世広民、勘定奉行となる。棄捐令の法案作成に携わり、猿屋町御貸付金会所を設置する。

5月20日 田沼意知江戸城内で旗本佐野政言に暗殺される(享年36歳)。田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中ではその跡継ぎをきったことを評価されて佐野は「世直し大明神」と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は偶然か刑の翌日から下落し財政はひっ迫。江戸には田沼意知をあざ笑う落首が溢れた。

オランダ商館長イサーク・チチングが『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰たきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝えた。「田沼意知一人が日本の将来を考え、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。

根岸鎮衛、佐渡奉行に昇格。

1786年 異常乾燥と洪水が頻発。→農村から逃げ出した農民は都市部へ流入し治安が悪化した。

8月25日 徳川家治死去。家斉将軍就任。9月5日田沼意次失脚。

1787年 曲淵景漸ら町奉行所は様々な対策を打ち出すも、商人や幕府役人の癒着構造、そもそもの品不足などがあり、状況が改善せず。

曲淵景漸が食糧不足の対処にあたっていた折、米穀支給を望んで景漸を頼っておしかけてきた町人たちと問答しているうちに激昂。

「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」「町人は米を食わずに麦を食え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火をつけ、群衆により複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時無秩序状態になったとされる。近年の研究では実際の発言内容は不明。

5月(7月7日?) 江戸や大阪で米屋の打ちこわしが起こった。千軒の米屋と8千軒の商家が襲われ、無法状態が3日間続いた。その後、全国に打ちこわしが波及した。

勘定、寺社、町、三奉行が対応を協議。なぜ町奉行が現場に出向かないのかと批判されると、景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この景漸の発言に対し、勘定奉行の久世広民は「いつもは少し火が出ただけでも出ていくのに、今回のような非常事態に町奉行が出向かないのはどういうことだ」と、厳しく批判した。

景漸ら町奉行勢は結果打ちこわしの鎮静化を図るために現場に出向いた。しかし、民衆から厳しい罵声をあび、町奉行側も打ちこわし勢を片っ端から捕縛することはせず、打ちこわしの時に盗みを行うものの捕縛にとどまった。これは、町奉行所の手勢の数では対応に足りず、そもそも町奉行所の権限では癒着構造や物価高騰・品不足などを抜本から解決できるわけでもなかったことがあった。

7月8日 状況を重く見た幕府は長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じた。しかし、実際に打ちこわし組を捕縛した先手組は2組にすぎず、残りの8組は巡回しているだけであった。

7月9日 町奉行所から、騒動を起こした場所にいる者は見物人ともどもとらえること、米の小売りの督励と米の隠匿を禁じる町触れが出た。米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。

様々な政策により、5月25日(7月10日)には江戸の打ちこわしはほぼ鎮静化した。

これを受け、松平定信が7月に寛政の改革を始めた。

6月10日(8月?) 打ちこわしの発生および対応の遅さの責を被る形で景漸は奉行を罷免される。石河政武が後任の北町奉行となる。景漸は留守居役(外交官)。しかし、才覚が評価されていた景漸は松平定信が老中になると経済に対する知識を買われて勘定奉行に就任。

1787年7月 根岸鎮衛、勘定奉行に抜擢。

1787年 9月19日(10月29日)江戸町北奉行石河政武が死没(63歳)。景漸の後任として江戸打ちこわしの騒動の不始末にあたった末の過労死ではないかと言われる。在職3か月。

同日付で、柳生久通が急遽北町奉行に就任(42歳→84歳で死去)。「3代将軍家光の剣術指南役を務めた柳生一族の家系の者が町奉行になった」と評判になる。しかし、仕事ぶりの評価は前任者の石河政武のような知恵も出せず、久通が100年勤めても石河政武の1年分の仕事にも及ばないと言われた。仕事に念を入れすぎるため、処理に時間がかかりその分経費も余計にかかったとされる。老中の松平定信には気に入られ、町奉行の根岸たちが申請しても承知してもらえなかった案件を久通に頼んだらすぐに許可が下りたという逸話がある。江戸城からの退勤時間が非常に遅かった。部下たちは奉行が帰らないので先に退出するわけにもいかず、毎日日没後に下城することを強いられた。同僚の勘定奉行である久世広民(50歳頃?)から「もうよかろう」と催促されても仕事を切り上げなかった。

1788年 6月24日 田沼意次死没(享年70歳)。

9月10日 柳生久通、勘定奉行に移動。

1789年 棄捐令。旗本御家人が札差からかりた借金を帳消しに。

火付け盗賊改め長谷川平蔵が松平定信に人足寄せ場設置を建言。これは従来の人足のような懲罰的なものではなく、犯罪者の更生のための施設であった。これにより、農村部からの住民の流入により悪化していた江戸の治安は改善された。明治維新により廃止。軽犯罪者を3年ほど収容した。

1790年 松平定信が人口増加政策を打ち出す。2人目の子の養育に1両。

    迅速寄せ場の仮小屋が完成し。5月14人が初出所。

1791年 山東京伝が仕掛け文庫を刊行。寛政の改革で処罰。蔦屋重三郎は過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けた。耕書堂は重三郎が江戸日本橋に開いた絵草子店。

1792年 松平定信が久世広民を通して「暑いときは御勘定所も早めに仕事を終えた方がいい」と伝えたところ、柳生久通はその日は特に遅くまで仕事をし、その後も同様に遅くまで残って仕事をつづけた。

5月 林子平が『海国兵談』を著し、海岸防備を主張。著書が人心を惑わしたとして、仙台に蟄居させられる。

12月 松平定信、蝦夷地防備策をたてる。

1793年 7月23日海防のために出張中、辞職を命じられ松平定信失脚。さまざまな政策を行った定信であったが、その厳粛な政治に当時の文人であった太田南畝などは「白河の清き流れに住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と改革を揶揄した。天明の大飢饉から幕府財政が回復しつつある中、外交問題などの問題が累積する中での突然の辞任だったため、当時の落首に「5、6年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われた。失脚後、定信は白河藩の藩政に専念し、キセルや織物の内職や生姜やたばこの栽培を推し進め、藩財政を潤わせた。老中退任後、詩歌をよくした定信は「田沼恋しき」と揶揄した太田南畝や手鎖の処分を受けた山東京伝に依頼して絵巻物を制作させている。

1794年 東洲斎写楽の役者絵が蔦屋重三郎によって出版される。

1798年 根岸鎮衛、南町奉行就任。

1799年 人口増加政策として2人目の養育に2両。

1802年 水野忠成、寺社奉行就任。その後若年寄、側用人を歴任し、老中へ。賄賂政治の横行。家斉をはじめとした周辺の奢侈な生活財政破綻をもたらす。

1804年 田沼意次の四男 意正が田沼本家を相続。

1833年~1839年 天保の大飢饉。→物価高騰、生活破綻。一揆や打ちこわしの頻発。

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