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【小説】さよなら川辺川 ⑫

猫のマロンが家に来てから、大樹は早起きになった。朝の5時前にはごはんを催促されるので、その頃には起き出して猫にごはんをあげて猫のうんちの片づけをして、庭の畑に出るのが日課になった。母の梨江などは朝は勉強の時間に当てれば良いというのだが、学校の宿題が毎日出るわけではないとはいえ、偶に宿題が出た時に1時間では満足する出来にならないことがあったので、大樹は朝を当てにしないことにしている。余裕があれば勉強をするが、畑の世話がもっぱらの優先事項だ。

梨絵は夏こそ豪雨に負けなかったホウレンソウや獅子唐など喜んで食べていたが、興味があるのは収穫だけだったらしく、最近は花壇づくりに凝り始め、畑には一切手を出さなくなった。それはそれで大樹にはありがたい。畑仕事を何も知らない母に、中途半端にあれこれ指示を出されても苛立ちしか感じていなかったからだ。

庭の畑のことは何も全部自分でやると大樹も決めていたわけではない。しかし、少しくらい手伝ってくれるとあてにしていた父は、まだまだ立ち上げたばかりの事務所の仕事を軌道に乗せるために忙しくしており、食事以外の時間に顔を合わせる機会もないほどだった。おそらく東京にいた頃の方が、父とはよく話していて、みなと家族の時間を持てていた。ここに引っ越して来てからは、大樹も学校によく通うようになり3人がばらばらにそれぞれの時間を過ごすことが多くなったようである。今日学校でこんなことがあったときっと父と母に話そうと思っていたことを話さないまま日々が過ぎていくことにもすっかり慣れてしまった。

以前の方が悩みや葛藤が多くて相談したいことが多かったはずなのに、何もない平和なはずの今の方が両親に話したいことが多くて、様々な思いを持て余しながらただ畑に語りがけるがごとく、鍬を振るう日々が続いていた。

「コロナの最中に友達と一緒に登山だなんてとんでもないでしょ」

昨日の夜母に言われたことに納得できなかったのに、反論もせずに終わってしまった。そのせいでいまさら海人たちにどう断りをいれるか悩んでいるのに、諾々と母の言葉に従ってしまう自分に大樹は寂しさを覚えていた。

先月、父と隣の林家の家族とですでに登山に出かけていたのだ。その時には、梨絵はぜひいってらっしゃいという態度で反対の言葉など一言も漏らさなかった。もちろん、鮎美の父の勇と大樹の父の光太郎という保護者がついていたということも大きかっただろう。子どもだけの登山に躊躇いがあった大樹は、母の言葉に安心した部分もないわけではない。母に反対されたという理由を話せばよいのだ。問題は話すタイミングだが、今日学校で言う勇気が出なければ今週末遊びに来る約束をしている海人に断りをいれればよいだろう。海人の母方の従兄弟が農家をやっているらしく、これから畑に植える苗をもらって持ってきてくれることになっていた。

大樹は東京にいた頃は半分不登校とはいえ、週末には父にジムに連れていってもらっていたので、持病があって体育を休みがちでも運動に苦手意識を持ってはいなかった。短距離走のタイムは結構速い方だし、球技もそんなに苦手ではない。けれども、先月鮎美たちといった登山では父たちを置いて跳ねるようにして先を急ぐ鮎美と山王を追いかけて行くのが精いっぱいだった。そもそも鮎美たちは、あれを登山とは思っていなかったのかもしれない。まるっきり普段着で、登山用のジャージと帽子で父とばっちり”正装”をしていった自分たちが場違いに感じたほどだった。けれども、遊歩道が整備されていたとはいえ、沢の巨石は苔むしてまるでアニメ映画から抜け出たようで鬱蒼とした林道の先にあった滝は轟音を立てて聳えており大樹にとっては十分に目新しく壮大であった。「こんな近いならたまに遊びにきても良いね」と鮎美は言っていたけれど、片道ですでに肺がはちきれそうに感じていた大樹には登山を普段の遊びの延長にはとても感じることができなかった。体育の授業を見ても鮎美はそれほど運動が得意そうではなく、山王も小4にしては小柄な方で普段の生活を見てもとても活発そうではない。しかし、軽快に山道を行く二人を見れば生まれながらの山育ちの人間との差を感じないわけにはいかなかった。

鮎美たちはさも感心したような顔をしているけれど、おおばあちゃんのりつ子が半日手を入れただけで見違えてしまったこの立派な畑を見ればここ数か月庭を畑にしようと取り組んでいた大樹の仕業など子どもの遊びの延長程度にしかないものなのであろう。大樹は毎日の草むしりすら億劫にしていたのに、90歳のりつ子は草刈鎌一つであっという間に見通しをよくしてしまった。完全無農薬を目指していたので、周囲に除草剤を撒いたと聞いた時には辟易してしまったが、母の梨江がわざわざ頼んだということだったから、文句は言えなかった。それにおかげで畑の世話は格段に楽になり、もう少し畑を広げようと海人が苗を持ってくる週末に会わせて大樹はここ1週間朝から懸命に鍬を振るっていた。

しかし、鍬を振るっても振るっても土の中から湧き出るように石くれがなくならない。特に前日に雨が降った翌日に鍬を振るっている今日などは、まるで先日鮎美たちと登った沢に鍬をいれているごとくに感じる。

数多に巨石の転がる沢に鍬を入れても豪雨を防ぐことなどできないのだ。やみくもに鍬を振るっても、誤って土の中のミミズや甲虫の幼虫を寸断してしまうがごとく清流に棲む鮎や岩魚を傷つけてしまうだけではないのか。

地元について次々とネタの浮かんでくる鮎美と違って、大樹は最近ますます部活のコンセプトについて悩むようになって夏休みからずっと筆が止まっていた。大樹としては進みゆく環境破壊について反対の意見を表明したいという希望がある。以前ちらりと漏らした言葉からして、鮎美もダムの建設についてはどちらかといえば反対の気持ちであるようだ。しかし、ダムができるのは大樹たちの住む校区のことではないということで、触れないということが鮎美の提案で決まってしまった。大樹としてもすでにあるダムを取材してダムがどんなものか書きたかっただけで、別段それを悪と決めつけて書くつもりはなかったのだ。しかし、変に大人らしいところのある鮎美は我が町研究部の新聞記事に自分たちの意見をいれるのを極端に嫌う。知りえた事実だけ書けばいいというのだ。取材した人が話した本音を書くのはいい。だけど、たとえばマスクが不自由だとか学校が遠くて通学が大変だとか自分たちの実感の伴う感想を鮎美は許さない。

他人の記事に口を挟むので特に海人に連れられて剣道部と兼部している部員たちは、最近部長は大樹になってほしいというようになった。今まで部長職などは曖昧なまま、鮎美の発想と行動力に頼って進んできた部活動であったが、発起人は大樹なのだからというのが男子部員の言い分だ。そして、それを立ち聞きしてしまった鮎美も大樹が部長職につくことを押している。

「今は男子部員が多いし、男子が部長になった方が部活がやりやすいと思う。それに美空ちゃんと葉月ちゃんはあまり部活に顔を出さないし。副部長は2年生の女子の先輩か海人くんに頼むのが良いんじゃないかな。あ、海人くんが剣道部で忙しかったら無理かもしれないけど」

鮎美は明るい口調を装っていたが、目には涙がにじんでいた。これまで部活に尽力していた自負があったはずだから、きっと部長を頼めば鮎美は断らなかったに違いない。大樹としては、部長と言われれば体調が不安な面はあるもののやってみたい気持ちはある。しかし、部活の立ち上げにいろいろ協力してくれた鮎美を差し置いて副部長まで他の者に任せていいのだろうか。

「いつもいつも鮎美ちゃんがなんでもやるより、バランスが良いかもね。大樹君とセットだと二人にみんな置いてけぼりにされそうだし」

美空の助言は一理あるようで、少し鮎美に対して辛辣に聞こえなくもなかった。鮎美が出しゃばりすぎていると不満を言ったように大樹にはとれたのだ。男子部員だけでなくもし美空や女子部員まで鮎美に不満があるとするなら、鮎美を役職につけない方が得策なのかもしれない。けれども、それで部の平穏が保たれたとしても、時々しか顔を出さない部員たちの顔を立てて、一番努力している鮎美をないがしろにすることになりはしないだろうか。鮎美が他の部員より性格が大人だからといってそれに甘えて穏便に済ませてしまって良いものなのだろうか。

話し合いをすっぽぬいて、鮎美は何気ない風を装い「そういえば部長の話が適当に流れてたので、もう部長は槻木君で良いですよね」と顧問の山上先生に言って頷かせてしまった。それはそれで良いとしても、問題は今度海人が遊びに来た時に副部長の打診をするかどうかということだ。部長が先生との口約束で決まってしまったなら、副部長を話し合いで決めるのもおかしな話だろう。

『これからの町の暮らし研究部』のこれからが大樹には見えなかった。有名人が来る災害復興のイベントの取材のネタばかりしか出さない他の部員よりは鮎美の方が大樹のやりたい方向を理解してくれて相談もしやすいだろう。けれども、その相談は別段鮎美が副部長にならないとできないわけではないのだ。

煩悶をぶつけるかの如く鍬を振るっても、すべて壁にぶちあたるかのごとくに土の中の石にぶつかって、肩や肘や手首がじんとしびれる。掘り出した石を脇に投げ捨てるのも億劫だ。土に鍬をいれるのは、山に川を作ろうとするようなものかもしれない。神様の真似をしたところで、人間には分相応というものがあるのだ。雨でなければ石を穿つことはできない。いや、土も。

カツ―ン。カツ―ン。

大樹が畑の世話をする様子を猫のマロンが辛抱強くじっと見ている。気が乗らないからといって早めに切り上げることは、マロンの手前できない。

解決しないことを毎朝悩み、畑作業はちっとも上達する気がしない。だけど、鍬を置いた時にはいつも清々しい気持ちがする。

「大学受験の時な。センター試験の点数によっては、工学部の建築学科が無理なら農学部を受けようと思っていたんだ。家も農家だったし、結構自然が好きなつもりだったからな。だけど、父ちゃん、つまりお前のじいちゃんが俺の気持ちを見透かして先手を打ってきてな。『お前は体力がないんだから、浪人してでも工学部に受かれよ。家の畑仕事をろくに手伝ったことがないお前が農家を継げるはずも地元で生きていけるわけもないんだから』って言われたんだ。結局センター試験はそこそこ点数が取れて浪人もしなかったんだが、もっと早く地元に帰ってきてもよかったなって」

登山の時に父がしてくれた話を大樹は最近よく思い出す。それがなぜなのかわからないが、思い出す度に心がすうっと冷えて冷静になるようだった。みんなそれぞれの感情と事情がある。地元民じゃない自分がいろいろと思ったところで、結局はなるようになるのだろう。そんな風に自分を無理やり納得させようとしても耳鳴りがするほどなぜか同じようなことばかり考えてしまう自分が大樹は心底嫌だった。

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