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【小説】さよなら川辺川 ⑭

今年は庭に蚊が少ないようであった。旅館『霧の奥』にとっては幸いなことだ。飼い犬のキイロも快適に裏庭の金網を立てただけのドッグランスペースを走り回っている。秋田犬にしては小柄なキイロだが、番犬の素養は十分すぎるほどで旅館の客が通りがかるとワンワン吠えている。観光客から可愛い可愛いと言われて愛でられる犬ではないけれど、飼い主に対する忠誠心が篤いのがうれしいのだ。

大抵は鮎美と山王が散歩と餌やりを担当しているが、キイロが一番気を遣って見えるのは母の道子で、父の勇にはいつも尻尾全開でとびついている。鮎美が学校から帰っても尻尾だけで返事するか真っ先にご飯のおねだりなので父の対応とはえらい違いである。ご飯をあげても散歩に連れていっても、時々遊んでくれて、全力で撫でて、一番力が強そうでそんな人物が犬は好きなのだろうか。その点、大樹の飼っているマロンは、子猫ながらしっかり大樹に懐いている。大樹の手足にはいつもどこかしらマロンのひっかき傷があって、それをものともしない大樹を山王は尊敬してみている。

山王は臆病とうほどではないが、慎重で頑固な性格だ。庭の柿の木にはしょっちゅう登っているが、飛び降りたことがない。サンダル履きでも慎重にずるずるすべり降りている。禁止されている橋からの川への飛び込みも地元の元気な子供に混じってやったことはない。ただし、学校で嫌なことがあるとランドセルに八つ当たりしてランドセルを川に投げ捨てるので、まだ小学4年生なのに、山王のランドセルは次の学年まで使い続けられないほどボロボロだった。

下校中に川に投げ捨てたランドセルは拾わなければならない。

「お姉ちゃん、ランドセル拾ってきてよ」

たまたま下校中に行き会った鮎美はその日山王にそう頼まれたが、これまで通りに断った。

「川に降りるのは危ないから、お父さんが帰ってきてから頼めば良いでしょ」

そう言って返すと、山王は諦めたようで無言でコンクリートの壁を滑り降りていった。拾って上がってくるまでは何となく見守らなければいけない気がして、鮎美はその場にとどまった。山王が思い切り上に投げて寄越したランドセルは弧を描いて、落ちるときに金具と道路のコンクリのぶつかる嫌な音をさせて着地した。

鮎美がそれを拾ってみると水に濡れているせいばかりでなく、べちゃべちゃした。触った手のひらを広げてみると学校で習字の授業でもあったのか、墨汁がこぼれていて真っ黒になった。

「持って帰ってね」

山王に偉そうに言われてムカッとしたが、濡れたランドセルを背負って帰らせるのも酷だろうと何も言い返さなかった。家が旅館を経営していてコロナのことがなくとも、小柄で落ち着きのない山王は周囲にからかわれやすい性質を持っていたから、いろいろと鬱憤がたまるのだ。

それよりなんで上がってこないのかと川を覗き込んでみれば、山王は川の中に必死に手を伸ばしていた。名ばかりの水無川は川草を分け入ると急に底が深くなっていたりする。昨日雨が降ったばかりだから、余計に水かさが増して濁っていた。

「危ないよ!」

坂の下の端の上から声をかければ、「狸が川にいる」と山王が返事をした。よく見れば確かに川の中州の草にしがみついている生き物がいるようだ。茶色の子猫のようにも見えたが、狸と言われれば狸かもしれない。空に鷹が舞い、イタチが駆け回って見え隠れする田舎ではあるが、鮎美はこれまで一度も狸を見たことがなかった。

しかし、近所では昔狸を飼っていた人がいたと聞くし、狸は繋がれた犬と喧嘩しても勝つと聞いたことがあった。山王がひっかかれやしなかと思ってみていたら、狸を捕まえたらしい、山王が奥の土手を上がってきた。懐にはジタバタ暴れる狸をしっかりかかえていた。

子狸だと気づくと、どうにも可愛らしい。心をつかまれた目が合った次の一瞬には、子狸は山王の腕を飛び降りてしまった。それでも、すぐに側溝に落ちて、山王がまた手を伸ばしたがそれに驚いたらしく、飛び上がって側溝から出て、今度こそかけ去って行った。

引っ掻かれたはずの山王は擦り傷切り傷に普段から慣れているためか、怪我してないか鮎美が聞いても無視してなぜか家とは別方向に歩いていってしまった。山王は落ち着きがないが、太陽を見れば方角がわかるので迷うことはない。鮎美は一瞬見た子狸に名残惜しいものを感じながら、山王の濡れたランドセルを自転車の籠に乗せて、家に帰った。

「山王が子どもの狸を助けたんだよ」

鮎美は夕飯の席で事の顛末を母の道子とおおおばあちゃんのりつ子に話して聞かせた。面白がってくれるかと思った母は、「狸は病気を持ってるかもしれんから、きちんと消毒しなさいよ」と引っかかれた山王の傷を気にしていた。だいぶ濃い紫色になっているが、山王はいつものごとく痛いとは言わなかった。ただ、不機嫌そうに「俺は助けとらん」と返した。

「ぼくが手を出さなければ自力で岸を上がったと思う。余計なことをしたから暴れて足を骨折したり、怪我をしたかもしれん」

「野生動物やもん。そんなに弱いわけないよ。自力で溝から這い上がったくらいだったんでしょ」

道子がそう言って慰めたが、山王は終始浮かぬ顔だった。

「助けてないのに、助けたとかいうなよな」

仕舞いにはそんな風に鮎美にやつ当たってくるくらいで、風呂の後に居間にも顔を出さず部屋にこもってしまった。籠ると言っても鍵のない部屋で、別にふて寝したわけでなく、壊れたテレビと近所のお兄さんから譲ってもらったゲームを部屋でするだけなのだ。心配はいらないが、旅館経営の家なので、夜は父が家にいることがない。山王が部屋に籠ると、女ばかりが揃ってしまう。

「なんで助けたって言っちゃいけないのかわからん」

鮎美が口をとがらせると、おおおばあちゃんが紙を折る手を止めて、うっすら笑みを浮かべた。

「山王は筋を通すのが好きやけん。それが業ちゅうもんたい」

「おおおばあちゃんは何でも業っていう。ようわからん」

鮎美は口ではそう言ったが、おおおばあちゃんにそう言われるとよく意味がわからないながらもそうなんだという気がした。

「そういえば今気づいたけど、何で山王の下校時刻に行き会ったの?最近部活で真っ暗になってからしか帰ってこなかったよね」

「そんなことないよ。それは1週間ぐらいで、学校で問題になったから先週から暗くなる前には帰ってたよ。ただ、今日は部活に行かなかったの」

「ええ?最近あんなに毎日部活にはまってたのに?部活休んだのにおばあちゃんと私に手伝ってもらってるの?」

母に言われて、鮎美は手を止めた。おおばあちゃんの完成させた紙人形と自分の作りかけを比べてすっかり嫌になっていた。

「話してたでしょ。部活が今、ちょっともめてるよ。ボランティアとか生き物の飼育とか町のイベントに参加する人が多くなって、ちょっと趣旨と違うかなって」

「鮎美は引きこもりだもんね」

「そういうことじゃないって言ったでしょ一昨日から!」

鮎美は自分でも驚くほど大きな声で母に怒鳴り返してしまった。そして、後味が悪くなり、すぐにごめんと謝った。最近部屋のノートに母に何回怒鳴ったかつけるようにしているが、それが数えきれないほどでうんざりしていた。母に八つ当たりしていることは鮎美もわかっていた。

早矢を抱えて鮎美の紙人形でのジオラマ作成を手伝ってくれている道子が、きちんと娘のことを考えて話を聞いてくれようとしているのはわかっていた。おおおばあちゃんも飄々としているけれど、多忙な両親に代わって家でぴったり鮎美のそばにいてくれる。

「まあ、なるようにしかならんたいね。のさったごとなっちゃなかと」

勝手に怒鳴って勝手に涙を流し始めた鮎美の背をおおおばあちゃんが優しく撫でた。

母もわざわざ早矢のおむつを二人のそばで替えながら、泣きながら話す鮎美の話を聞いてくれた。

今、鮎美たちの部活は分裂しようとしていた。学級崩壊ならぬ、部活崩壊だ。

今、部活では後から入ってきた剣道部のメンバーにつられてやってきたメンバーが積極的に部活を動かしている。彼らは豪雨で被害を受けた家の片付けのボランティアや鮎の放流や駅前の仮設商店などのイベントごとを積極的に取材しようとしていた。イベントに合わせてだれだれたちがいついつにどこ、この記事はいつまでなど先々の予定をしっかり決めてくれようとするのだ。最初は鮎美の意見ばかりが通っていて、誰も意見を言わなかったのでありがたい話ではあるのだが、それに反発するメンバーも多い。今や鮎美たちの部活は30人近い大所帯になっていて、図書館を借りては全員では話合いもできない状態だ。それで、兼部や習い事で来ない曜日があるメンバーや空き教室を借りて記事を書くなどの作業をしているうちにポンポン話を進めて予定を本決まりにしてしまうのだ。

顧問の山上先生も生徒には積極的に外に出てほしいらしいから余計に話がこじれる。ボランティアは結構なことだが、コロナ禍にあって、部員たちでみっしゅうした状態で池さらいや施設の訪問などしたいメンバーばかりではないのだ。「それに後からきたメンバーや山上先生は、給食の時間に「これからの町の暮らし研究部」の取材内容を校内放送で発表したがるが、まだ記事にしていないことを先に放送に流すと、記事を作る楽しみが半減すると鮎美は思う。それに物怖じしない鮎美が上手だからと3回も放送の担当になり、他にやりたいけれど自信がない人の反感を買っていることも薄々感じていた。まずは自分たちでできる範囲で調べて、テレビ電話で話しを聞くでもよいし、必要があれば訪問して話を聞く。ジオラマを作るために自然の写真は撮りたいけれど、できればまだ実現していない今すでにあるダムについて調べたりするのが、鮎美の望みだった。

今は女子と男子で理科室と調理室で部室が分かれたような状態だ。しかし、女子の方にいても鮎美はイベントごとの参加や計画より、記事作りを優先したいし、塾に通ったり習い事のある他のメンバーもそれほど出事のこれまで通りの活動を望んでいる人も数人いる。一方で大樹によると大樹の他にも男子の先輩などもっと地味にやりたいと言っている人が数人いるということだった。

「いっそ放送部と新聞部みたいな形に分けたらどうかなってそれでみんなにていあんしてみようって美空ちゃんとか葉月ちゃんとか女子の数人に相談したの。そうしたら、机にいつもあんたばっかりが決めるよねって手紙が入ってたんだ」

名前がなかったから、誰が書いたかは特定できない。ただ、筆跡からなんとなく誰が書いたか見当がつくような気はしていた。たまたま隣にいて一緒に読んだ葉月は、それって○○ちゃんじゃない?とはっきり名前を口にしていた。でも、鮎美は誰が書いたか考えたくなかった。葉月が言った人物だったとしてもちょっとカッとなっただけで、後で自分の行動に自分で傷ついて後悔しているのではないかと思っていた。そんなことよりも、このまま部活がよくない雰囲気になってみんなでいがみ合ったり、LINEで悪口を回し合うようになるのが嫌だった。それを放置して口出ししないことがいいのだろうか。男子と女子の部室を行ったり来たりして伝言係になっている鮎美を知って周りにいいように利用されてるんじゃない?と心配してくれる級友もいるが、鮎美としては利用されていようがいまいが、それで周りの環境がちっとも調整されて快適になっていないことが問題だった。

「確かにあんたは思ったことをぽんぽん何でも口に出して言うからね。だけど、何もしないでこのままで良いと思っているわけじゃないんでしょ。だったら、ここは少し譲って、海人くんか山上先生に部活を分けることを相談して代わりに言ってもらったら?あんたが自分で言うのと変わらない気もするけど、少しは穏便に行くかもよ」

母のアドバイスに涙が止まって、紙人形の作成に戻った鮎美は黙って頷いた。海人と約束した町のジオラマだが、鮎美は不器用なので、とりあえず、人を紙で作ってみて使えるか考えることになった。大樹は、自然のものを作ると張り切っていて、父親が建築家であるので道具も揃いセンスも受け継いで、作業は進まないながら、この間見せてもらった山の完成度は素晴らしいものがあった。「みんなでダムを見に行って川の水害について調べてさ、いろいろ考えようよ」と部員が増えた夏休みに言ったことを大樹は覚えていないのだろうか。大樹は週3、60分から90分までの活動と自分で決めているようでみんなで勉強もしないし、雑談も減っているので、最近意見どころか部活で口を利いているところを見ることも少ない。ただ、鮎美と家で勉強するときによく海人に電話をかけては、ジオラマやゲームの話ばかりしている。そんなに仲が良いのなら、たまには海人の家に遊びに行けば良いのにと思う。部が分かれても大樹と海人とそれから美空や葉月も新聞部の方に残ってくれるだろう。だけど、それで、以前の部活に戻るのだろうか。人数が減って仲の良い人だけで固まるのが、自分の望みなのだろうか。そうだとしたら、新しい部員を邪険にしている自分こそが身勝手な気がする。

たくさん皺の寄った不細工な紙人形みたいに鮎美の気持ちもくしゃくしゃだった。



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