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良い習慣をやめる。

おはようございます!

 昨年は薬草学講座を受講して薬草への興味を深め、今年は昨年から庭に居着いた猫たちを随時避妊手術していくことにしました。そのようにして徐々に庭周りのことをnoteに書くことが増えました。育てているハーブのこと、家庭菜園で育てた野菜を使っての自炊記録、飼い主のいない猫たちの捕獲に今奮闘中。やっと在宅ワーカーを名乗れるようになってきて、おそまきながら節約の意識を持つようにもなりました。他にも趣味の読書やビデオ(映画)の感想文。稚拙な詩や小説の創作活動など。
 書きたいことを描きたいだけと気ままにやってきたこのnote。しかし、書くテーマが増えすぎて、創作とか歳を経るごとに疎かになって下手になってきた気もします。いつになったら、自分の小説を朗読するという目標が叶うのやら。
 テーマが定まるどころか、私の雑多な日常をつまびらかにしすぎて、当初考えていたものとは違った方向にテーマが広がってしまいました。
 飼い猫と自分の食事記録をしていくつもりではじめたnoteだったのです。そのつもりで「猫様とごはん」というハンドル名にしました。ところが、今は私の雑多な記録の中で何を削るかというとその”ごはん”の記録ではないかという気になってきたのです。全部なくすわけではない。けれども、なんでもかんでも書いたり言ったりすることで、この人何者なんだろうか?って読んだ人に誤解を与える部分が出てきている気がします。自意識過剰でしょうか。ほとんどただの日記なんですけどね。とりあえず、毎日投稿は続く限り続けます。

朝ごはんの記録はわたしに必要か。

 朝ごはんの写真記録はそもそも毎日投稿できていません。しかし、5月は好調に投稿が続いき、かえって「これ、なんのためにやっているんだ?」と疑問が出てきたわけです。健康記録のつもりだったけれども、それで、献立が見直せるようになってきたか、自炊の腕が上がったか。どちらもそんな気がまったくしません。
 食事の写真を撮ることをやめるのではありません。胃腸が弱いので、自分が何を食べたかわかるように写真は残したい。ただ、これまで毎日朝ごはん投稿をできていなかったのには自分の中に理由があるような気がします。
 朝ごはん記録は嫌になったからではなく続けたい気持ちは大いにあります。しかし、私が変わるにはやり方を変える必要がありそうです。
 毎日写真をアップするという事をやめたいです。多分私に向いていません。見出し画像にする写真すら上手く撮れないのです。
 朝ごはん記録は、一日も欠かさずにできていたわけではありません。この習慣は、1000日継続という目標が高すぎました。これがコンセプトが決まっていたり、発信することによって、誰かの役に立つものだったら良いでしょう。しかし、私がただ見返すかもしれないというだけで、毎日毎日自分が食べたものを人に披露するのたまたま目に入って継続的に見せられる方にはちょっと迷惑ではないかと思うようにもなりました。他人に頓着しない私とは言え、あんまりかなと。
 例えば料理とか花の写真とかを毎日投稿している人たちを批判しているのではないのです。ただ私は写真や料理の見映えにこだわりがなく、ちょっとしたアイディアで物事をよく見せるということが向いていないんですね。あまりに惰性的なんです。
 向いていないことをなぜ続けるのか。他の人にとって良い習慣だからといって、私にとって本当に良い習慣なのか。向いている人はよくできたものだけを発表するでしょう。しかし、私はどちらかと言えばこんなふうに失敗しましたという話がしたいんです。料理するときに、ここが難しかったとか、この点がうまくいかなかったとか、ちょっとした気づきを書き残しておきたい。平凡な朝ごはんにそれほどの失敗はありません。ドラマがない。
 何の気づきもなかった料理の写真を見返さないのです。

私にゴッホが救えるか。


 5月はネットの支援で私が救われた月でした。しかし、その恩返しのために私が誰かひとりでも救う立場になれるのかというと、いまのところなれません。
 創作の定義は分かりませんが、作られたものを見るのは同じ創作活動をする仲間と限らないでしょう。画家の作品を画家が見て美術館を画家が運営して、小説家が図書館長で、スポーツはスポーツをするスペシャリストだけが楽しむものではないです。
 運動をしない私がオリンピックを見て、まだ何者でもない子どもの頃には読書に夢中になった。
 絵を描く人が絵を買って楽しむこともあるでしょう。しかし、ゴッホに絵が買えたでしょうか。自分の絵を売る事すらままならない人間が、友人の画家を助けられない。同じ立場であったならば、自分もやはり相手の困窮がわかるので縋れないと思います。
 むしろ凡人である私などは似たような立場の人が、私より少しでも恵まれていれば妬みさえするでしょう。
 ゴッホは絵を描いて、誰に楽しんでもらいたかったでしょうか。誰でもよかったかもしれません。しかし、路傍に倒れる者は見知らぬ人間にメッセージを与えたいような人だと思うのです。
 同じ仲間に励まされるのは素晴らしいことですが、絵を描かない人が絵を買ってくれた時の喜び、運動が得意でない人間が運動が得意である人をすごいと褒め称えた時にもご本人に力を与えるのではないでしょうか。
 好事家は専門家に限らないと決めつけるのはうがった見方でしょうか。

良き後援者は何も作らないかもしれない。

 私の母は新聞購読している間はコピー絵を集めていました。高齢になった今はそれは贅沢だと思っているようです。一日も欠かす事なく本を読みます。けれど、私のように読んだ本の読書感想文をブログに書いたりはしません。けれども、母ほど本を読む人は滅多にいないだろうと思うと、やはり母の小説や絵画など創作物に対する愛は深いと思うのです。よく楽しんでいます。母は生まれ変わったら、お医者さんになりたいとよく言うけれど、お金があったら、きっと誰かの後援者になっていたと思います。
 作れないからこそ高まる尊敬があるのでしょう。
「仲間だけでわかったような顔をしてわかっている話をするだけでなく、わからない人間も少し仲間に入れて下さい」。日本の政治ニュースに接するとたまにこう思います。

 話が脇道にそれたようです。私は朝ごはんを充実させたいはず。noteで創作活動がしたいはず。そうだとすれば、朝ご飯の記録は、もう少しコンパクトにしていきましょう。
 私はゴッホを救えるか。私はゴッホになれるのか。きっと路傍に朽ち果てられるか。そんな風に夢想していたいのです。だから、私は、きっと誰かに支えられていても、誰かの偉大な後援者にはなれません。お返しのできない、そんな陳腐な人間なのです。

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