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我が家の庭の風景 part.99 石の水紋

年末に雪が降らなかった。
雪が降るような寒さだった。
雪どころか雨も降らなかった。
昼間の雨だ。夜雨では意味がない。

起きて庭に出たら昨夜の雨の痕跡はなかった。石の中心部にはまだ染み込んだ雨が残っているだろうか。寝正月の昼過ぎだ。さすがに石も乾ききっているかもしれない。
12月中に焚き火をしようと思って、庭に石を積んだ。丸く石で囲んで、天然の焚火台だ。囲炉裏かもしれない。
石囲いの中心に、地面に鉄の棒でも突き立ててみたら、薬罐をぶら下げてお湯が沸かせるだろうか。

雪か雨が降ったら、夢で見た景色を実際にも見られるかと思っていた。
遠藤周作さんの『ほんとうの私を求めて』というエッセイ集をちまちま読み進めている。夢や無意識の話が多く、その影響か以前より夢の内容を覚えている事が増えた。
どんなに夢見が悪くて起きたら心臓部がバクバクしていても、内容はさっぱり思い出せないという事が常だった。

夢の内容はどれも明るくない。ただ猟奇的でもない。執拗でもない。
石の水紋の夢は、天から雫が落ちてきて水面のように石の表面が波打ち水紋がそのまま石の模様になっただけだった。その光景を繰り返し見たが石の模様は様々で飽きなかった。

我が家の庭には石垣に出来るほどの大きさの石がたくさん埋まっている。以前にあった池の周りに積んであったものかもしれないし、石倉を作る時に出た余りかもしれない。
庭の入り口には石で花壇が作られていて、右側には街路樹のように山茶花が植えてある。
どれも樹齢100年は超えているだろう。
電気ノコギリで毎年のように荒く刈られているので高さはどれも私の身長より少し大きいくらいだ。

植物は長生きするほど丈夫になるのか、乱暴に扱われても山茶花は毎年無事だが、石垣はだんだん崩れてきた。父が毎年乗るからだろう。何年か前に崩れた一画は山茶花が引き抜かれたまま歯抜けになっている。
父が植え直すのをめんどくさがったに違いない。その石垣の石も積み直すといくつかはなぜか余って父が地面に埋めたのではないだろうか。

失敗を埋めて隠したくなる人は多い。
しかし、私は穴があったら入りたいと感じたことがない。
自分の無力や無能さを実感した時は、感じるだけの神経体のみになりたいと子どもの頃は思っていた。死にたいとか隠れたいとは思わず、私の存在が気にされなかったら良いのにと他人の感情の機微がただ煩わしかった。

水紋の夢を見た私だが、水音が苦手だ。
山間地の実家では、冬は水道が凍らないように水を出して寝る。
たとえばトイレに行きたかったり、背中いっぱいの蕁麻疹で夜中に起きてしまうと、水音が気になってなかなか寝付けない。

猫の寝返りの音すらうるさいのだ。
夢の中で次々と出来た石の水紋はうるさくなかった。音のない世界だったのだろう。
私は美的センスがないので、美しい自然音も雑音に聞こえてしまうのかもしれない。
小鳥の鳴き声を美しいと思う事もあれば、うるさいと感じる事もある。
鳥の鳴き声の種類によるだけだろうか。

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