続・本当に怖くない猫の話 part.3
運命の猫は怖くない
「こんにちは。今日もお疲れ様です」
新宿の街に似つかわしくない明るく爽やかな声で現れたのは、元力士の議員秘書だ。
久しぶりの来訪に猫と人間の結婚相談所「ハッピープラス」に、一瞬不穏な空気が流れた。
結婚相談所において、以前の会員が訪れる事は良いことではない。
何かのクレームか?結婚後の愚痴を言いに来たのか?それとも離婚したので、再び会員登録して結婚相手を探したいのか?
とりあえず面談室に通したが、議員秘書はすぐに用件を切り出さなかった。世間話を始めたので、とりあえず最悪な話だけ避けられればいいと何でも屋にしては、珍しくつとめて明るく話に付き合った。
すると、議員秘書は大きな体をもじもじさせて、意を決したように目だけは力強く何でも屋に視線を合わせた。
「もうすぐ選挙なんですよ」
「え?解散するんですか?そんな情報は他人におっしゃらない方が」
「いや、報道は既に昨日出てますよ。紛らわしい言い方をしてすみません」
「いえいえ、こちらこそ、無知ですみません。新聞を取るのをやめてしまって、最近SNSもお休みしているものですから」
何でも屋は、自分の見当違いな発言が恥ずかしかった。あまりにぽろっと余計なことを言ってしまった。SNSを休んでいて、今の時代に何でも屋が務まるのか?そんな疑問が湧いて当然だったが、議員秘書は多くを聞かず、
「そんな日も必要ですよね。僕も休みの日には、スマホを置いて数時間外に出かけるようにしています。留守番電話機能が意味をなさなくなったのは、全く人類の損失です」
と、驚きの発言をした。議員秘書が休みの日にスマホを持つたずに連絡を取れないようにして良いものだろうか。いや、今の世の中、どんな立場の人間もスマホは必須アイテムなのかもしれない。だからこそ、その便利なものを手放して、不自由な中で手探りで旅をするような安らぎを得ることが必要なのだ。
「そういえば、しばらくキャンプに行ってないなぁ。どうですか?あいつも日本に帰ってきているんですよ?明日の休みにバーベキューでも行きませんか?」
「いやいやお忙しいんじゃないですか。選挙なんでしょう」
あいつというのは、議員秘書の友人の医療技官の男のことである。世界を飛び回っており、数日前に日本に帰ってきて、その日にハッピープラスの就業時間に訪れて、有無を言わさず、何でも屋を自分の家に招き入れた。少し酒を飲んで、ご飯をご馳走してもらった。早々にお暇できたのは、猫たちが他人の家で落ち着かず、帰りたがったからだ。おかげでそこそこに楽しい時間を過ごして泊まるなどという窮屈な思いをしなくて済んだ。翌日も仕事だ。技官もそうだったが、彼はいつも気力に溢れて疲れ知らずだ。きっと一日ぐらい寝なくても、何でも家に言いたいことを語り尽くして元気に職場に向かっただろう。技官は我慢強い人間だったが、気を許した人間に話し出すと止まらないという悪癖を持っていた。
議員秘書と一緒ならば、話の聞き手は、2人になるので、嘘か本当かわからない話をよくわからないまま、聞かされる負担も減るだろう。「おい、そろそろ話が長いぞ」と毎回、技官の話に30分ごとに議員秘書が注意を入れてくれるのだ。
「そうなんですよね。実は出馬することになりまして」
「へーそうなんですか?それは大変ですね」
世間知らずな何でも屋は、ただうなずくにとどまったが、ちょうど就業時間を知らせに来た偉い人がすかさず「おめでとうございます」と祝福して、何でも屋は自分の失態に気づくことができた。
選挙に出る、議員になれると言う事はめでたいことなのだ。相手の言葉を真に受けて「大変ですね」と応じるのではなく、まず「おめでとうございます」と言うべきだった。
「そうなんですよね。自分ではまだ全く準備ができていなくて、妻にもどう言ったらいいか。いやもう話したんですけど、何か向き合うきっかけというか?頑張ってくれる?と素直に聞けないんですよね。頑張れって応援はしてくれたんですけど、僕に対する言葉だけじゃ足りないような。妻にも負担をかけると思うので、他人がいたら、もう少し、冷静に気持ちを打ち明けられると思うんです」
そんなことを言われたら、選挙前に油を売っているなとは、言葉を重ねにくい。何でも屋は助けを求めるように依頼人を見たが、依頼人は「明日の事はまず奥様にメールされたらどうですか」何でも屋と視線を合わせることなく、議員秘書に優しくそう声をかけた。
議員秘書はすぐに妻にメールをした。奥さんやバーベキューをする場所の都合上、翌々日の日曜日に会うことになった。
「いや、ありがとうございます。却って良かったです。実は、猫のことで相談があるんです。」
「じゃぁ、うちに寄って行かれますか?テイクアウトの料理を買って行きましょうか」
何でも屋が口を挟む間もなく、依頼人が応じてしまったので、話の続きを依頼人の家で聞くことが確定になった。何でも屋の仕事を一番初めに依頼してくれた依頼人は何でも屋を何でも屋たらしめてくれた大恩人だ。はじめの頃は、まともな依頼はほとんど彼女からのものだった。あるいは彼女が他の人から相談を受けて、何でも屋に依頼してくることが続いている。
最近なんでも夜はSNSで依頼の内容を精査することに疲れていた。自分1人でやっていることなので、手に負える内容かどうか、まず判断することが必要なのだ。
しかし、今日ははまだ会ったことない人間からの依頼ではなく、依頼人が引き受けるには引き受けると判断した既知の結婚相談所の客の相談である。
このひと月何でも屋は開店休業状態だった。猫の相談ぐらい聞いてやらないとこのまま廃業になってしまう。だから、何でも屋も2人に口を挟まなかった。
従順に2人のお勧めする店を運転手として探し出し、無事テイクアウトで食料品を確保して依頼人の家にたどり着いた。
勝手知ったる猫たちの我が家。2日に1回はこちらに泊まるので、猫たちは結婚相談所と3軒家を持っている状態だが、どこでも落ち着いているので、(技官の家では別だったが普段は平家と一階の店舗なのでエレベーターが怖かったのかもしれない。)何でも屋は、猫たちのストレスを心配することが少なくなってほっとしていた。
「僕は、僕の猫を傷つけた猫を飼っているんです。しかし、そいつのことが許せないのに、どうしても猫相手に厳しい態度を取ることができない。僕は、僕の猫を飼っていないのに、敵の猫を飼っているこの矛盾をどうすればいいでしょうか」
「ずいぶん話が複雑だな。いや全く話が見えないよ」
技官がツッコミを入れると、議員秘書は一瞬ぽかんとした顔をしたが、説明が足りなかった事は伝わってもう一度詳しく話し始めた。
彼の話によると、彼は昔世話になった相撲部屋の親方に自分の猫を預けているのだそうだ。と言うより、議員秘書が勝手にその猫をいつか譲りうけると決めているだけで、猫自体は、親方が拾って相撲部屋で飼われている13歳以上の老猫だ。親方には、それほどなついていないが、中にはとても可愛がっている力士がいるそうなので、おそらく議員秘書が出る幕は無いのではと話を聞きながら3人は思ったが、夢を壊すのはかわいそうなので、誰もツッコミをしなかった。
その猫が、外で怪我をして帰ってきた。どこかで餌をもらっている野良猫と喧嘩して、手ひどくやられてしまったのだ。
幸いなことに、今のところ感染症にかかったような症状は見えないが、議員秘書が部屋を訪ねたのは、その猫が怪我をした翌日で、その猫はちょうどびっこをひいていた。それが議員秘書にはひどくショックだった。部屋の構造上、またその猫が脱走することが予想されるので、議員秘書は親方や力士たちに協力して、怪我をさせた方の猫を捕獲することにした。餌でおびき寄せた猫はあっけなく捕まり、またその猫が部屋の猫と似たような怪我を負っており、議員秘書が病院に連れて行くことになった。そしてそんなつもりはなかったのに、流れでその野良猫らしき猫を自分の家に連れて帰ることになったのだ。
保健所や近隣に問い合わせたが、今のところどこかで飼われている猫ではなさそうだ。そもそもその猫はまだ子供時代を抜けきってないないような、細身の小柄な猫だった。どっちが先に喧嘩を仕掛けたかわからないが、勝負は互角だったのだろう。
しかし、どうしても議員秘書は割り切れない。脱走させた方にも不備があったとは言え、若い猫なら年老いた猫には遠慮しろと思うのだ。人間は飼われている猫に愛着が湧く。いや、自分が飼っている猫のほうに、愛着が湧くのは仕方のないことだ。しかし、議員秘書はまだ猫を飼っていない。
将来飼う予定の猫(仮)を傷つけた猫と傷つけられた方は相性が悪いだろうから、親方は議員秘書が引き取ってくれてうれしいと喜んでいるそうだ。
しかし、言い出せなかったものの、議員秘書はまだその猫を飼うとは決めていない。猫を飼うのは結婚して生活が落ち着いてからと妻と決めていた。しかも、自分が飼おうと思っていた猫ではない。妻は経緯は説明したものの、目の前でびっこをひいて怪我をしている猫の方に同情心が湧いてしまったのか「まだ小さいから社会性が身に付いていなかったのよ。とんだ巡り合わせで、2匹とも不幸だったわね」と言って、ケージの中でシャーシャー言っている猫をなつかせようと、毎日新しい猫のおもちゃなどを与えて努力している。その姿はまるでその猫を飼うつもりにしか見えない。
「まだ飼うか分からないよ」
「こういう流れって仕方ないのよ。運命よ」と奥さんは取り合わないらしい。
ハッピープラスで出会った2人は、それまで猫を飼った経験がないと言う珍しい2人だったが、それなりに猫に対する憧れがあったから、ハッピープラスの門を叩いたのだろう。
しかし、実際それが実現してしまうと秘書は苦悩しているようだ。
「僕の猫を傷つけた猫を飼うなんて、僕の猫に対する裏切りですよね?しかし、その猫をやたらと僕には懐いてくるんです。僕が帰らないと、餌も食べなくて」
だから、議員秘書の彼は前にも増して、残業知らず。とは言え、猫の事で忙しいから議員にはなりませんとの言い訳を素直には言えなかった。
いつか、猫を飼うことも議員になることも夢見ていたが、それがいっぺんに叶いそうになって戸惑っていた。
「まぁ、あなたが帰らないと、ご飯も食べないなら仕方ないですよね。しばらくは面倒を見ないと。怪我もしたなら、また外に戻しても喧嘩して怪我をするでしょうね。その調子じゃ」
何でも屋がもっともな指摘をすると、「あいつは外では生きられないでしょうね」と議員秘書は悩む様子を見せた。何の事は無い。親方の猫を飼うんだと勝手に決めていたが、今はもう彼も怪我をさせた方の猫にすっかり愛着が移っているのだ。
「でも、僕は、部屋の猫がその猫との喧嘩で命を落としていたら、それでもその猫を病院に連れて行ったでしょうか。僕はそんなにお人好しじゃないと思うんですよ」
「いや、お前なら、どっちも病院に連れて行ったよ。そもそも、怪我をさせた方の猫を律儀に探すのがお前らしいよ。喧嘩した現場に居合わせたとしても、俺なら両方とも病院に連れて行ったか、疑わしいけどな」
励ました技官は後半の言葉を寂しそうに言った。彼は、子供の頃に飼っていた猫を部屋から締め出して、弱らせてしまったことがある。どんなに贖罪を重ねても、あの時の心境にならず、いつだって猫を邪険にしないとは、自分のことを信じられないのだった。
「そうか。別に怪我させた方無理に探す必要もなかったのかな?何でも屋さんに猫の捕獲方法とか前に聞いたことがあったから、それを実行することしか頭になかったよ。よく考えないとダメだな。後先考えない人間じゃ議員なんて務まらないよな」
「おいおい弱気になるなよ。夢は目前だろう。何なら俺も一緒に選挙に出てやろうか。2人で日本を変えてやろうぜ」
「それはいいなぁ。ぜひそうしてくれよ」
2人は酔っ払ってしまったのだろう。猫の話に決着がつかないまま、選挙の話に移ると、とんでもないことを言い出して、具体的な議員としての目標などを語り出し始めた。
何でも屋はとても話についていけなかったが、とりあえず話を聞いているふりだけして、猫を撫でたり、世話をしたりしながら、夜も更けて寝る時間になるまでその部屋にはとどまった。
依頼人の家は広い。客人を泊まらせる部屋はホテル並みに複数あった。
二日酔いもなく、連日の大雨や猛暑のためか、部屋にクーラーがよく効いていても、何となく気だるく、昏睡するように、何でも屋は眠りに落ちて、そして、翌日晴れた朝に目覚めたときには、これまであった体の気だるさが少しだけ取れていた。
酔っ払いの戯言と聞いていた話が、実は真剣で、本当に2人とも出馬したと何でも屋が知ったのは、投票日当日の事だった。
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