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【小説】さよなら川辺川 ⑱

秋から学校のクラブ活動が始まると、山王が飼っている秋田犬のキイロの散歩に行かなくなった。明るいうちなら、鮎美一人でも大丈夫だが、その間に早矢を見ていてくれる人が必要だ。一度だけ早矢を背負ってキイロの散歩に行ったことがあるが、誰かに見られたら恥ずかしい気がして一度きりでやめてしまった。それにもう冬のだいぶ寒い季節である。寒さに強いキイロはともかく赤ん坊の早矢に風邪をひかせるわけにはいかない。保育園の迎えも父が行くようになったから、そのついでにキイロの散歩というわけにもいかなくなった。保育園のそばの電柱に繋いでいたのだが、一度大きな犬が怖くて中に迎えに入れないから注意してほしいというクレームが入った。玄関先でもあるまいし、気にしなくてよいと言われたが、それでもそんなことを言われたらおいそれとついでに犬の散歩をというわけにもいかない。夜に母と散歩に行くこともあるが、母も慣れない仕事で疲れている。父は、夜は晩酌した後は使い物にならなかった。

どうしたものかと思っていたら、正月明けて予定通りおおおばあちゃんのりつ子とその娘の泰子おばさんが離れに引っ越してきた。完成した離れの石倉はトイレも風呂も流しも独立してついており、天井が高いのも年寄りには懐かしくて良いらしかった。石壁で火事の心配もなく火を焚けるというのもよいようだ。だが、そうやってすぐそばにおおおばあちゃんが来ても、鮎美はなかなか早矢のことを頼みに行くのが面倒だった。おおおばあちゃんはともかく、母の道子にとっての”泰子おばさん”はこれまで法事の時の数回しか会ったことがなかった。そのうち慣れると言われたが、会うたびに何を話していいかわからないので、それが面倒でなかなか散歩の間早矢を預かってほしいとは言えなかった。ただ、それを察してか、おばさんたちの方で母屋に早矢の様子を見に来てくれるようになったので、鮎美は久々に北風の吹きすさぶ中キイロの散歩にでかけた。

秋のうちに出かけておけば景色もよほど美しく清々しかったのにと、鮎美はキイロを放っておいたことを後悔した。寒いけど以前のように川向こうの隣町の手前を目指して遠出した。ススキノ以外に何もないが、これが秋であれば玄関を開けてすぐにふわあっとアキアカネの群れが広がって、川沿いにはイトトンボが目に付き、白鷺の影に空を見上げ、キイロが小川で水を飲む間に揺れる木陰でぼうっとしたりとひたすら優しい世界が広がっているのだ。しかし、冬はひたすら向かい風と戦ってキイロだけがうれしがるばかりだ。それでも意地になって進んでいけば、思った以上に遠くに来てしまい、鮎美は戸惑った。方向音痴だが、まっすぐ来たので帰り道はわかる。しかし、いつの間にか隣町に来ていたようだ。そこで、鮎美は目印にしていた椚(くぬぎ)の大木がなくなっていることに気づいた。おおおばあちゃんが子どもの頃からあったという大木で、夏にはカブトムシやクワガタの採れる近所の子どもたちのちょっとした人気スポットだ。 鋸葉が道路にかかるほど広がって本当に涼しかったが、スズメバチもよく来るので、通りがかってもあまり長居はせず、どんぐりだけ急いで拾って立ち去っていた。

遠出して満足げなキイロと慌てて引き返せば、帽子をかぶったまん丸のどんぐりが椚の名残を落としていた。このどんぐりはもうこれで最後だと思うと鮎美は寂しくなった。家に帰って両親に聞いてみると、大きくなって根っこが道路を持ち上げたら危ないということで切り株も残さず撤去されることになったそうである。きっと人間が植えた木なのに、人間の都合でなくなってしまうのだと思うと、何だか鮎美は悲しみを覚えた。人間はどんどん変えたがる。変えなければいけないこともあれば、椚の木みたいにやむを得ないこともあるだろう。けれども、木を切る前に近隣の住民に相談があってしかるべきだったのではないかとも思うのだ。

たとえば正月前に、鮎美たち家族は久々に7月の豪雨被害のひどかった市街地に出かけた。施設の高齢者の人たちに久々にキイロに会ってもらうためだったが、そのとき通った駅前近くの街はだいぶ崩れた家屋の片付けも済んでいた。

元々駅前はシャッター通りでさびれている。店が再開していなくてもそう人波に変わりはないだろうと思っていたが、予想以上に家屋の取り壊しがすすみ、更地ができていた。住居より店舗の多い場所であるが、その店舗も入居募集の看板が出て早々と売りに出されていた。あの店もこの店ももうこの場所で再開する気はないのだと思うと、これまで慣れ親しんだ地元の実情を考えればそれが当然という気もした半面、こんなあっけないものかという驚きもあった。ネットや新聞ではダムの建設の話ばかりがニュースになっているが、たとえダムができてもこの街はそれで再生できるのだろうかと思わざるを得なかった。

豪雨で氾濫した山田川と万江川は確かに本流の球磨川と合流するが同じく地図上右手にある支流の川辺川にダムを作って水をせき止めれば川上の万江川と山田川が氾濫しないという説明を鵜呑みにしている地元民がどれだけいるのだろうか。市街地の頭上で降った雨が多ければ、そこにある川は氾濫するものではないのか。そもそも、城跡を取り囲むようにできた堀とその側を流れる川は、城攻めしにくいように雨が降れば溢れやすくできているのだ。すでにある隣県との境目の山奥のダム周辺は1万本の桜で有名である。周辺に1万本も桜を植えられるほど巨大なダムがすでにあるのに、また隣の山に新たなダムを作ろうというのだ。頭上からどれだけ雨が降っても逆流しなければ川が氾濫しないという理屈をもう少しかみ砕いて住民に説明すべきではなかろうか。ダムはできる、反論しても無駄だから地元住民はほとんど口を閉ざしている。杉山の話はお首にも出ず、市民団体が抗議してもネット民によって命よりも川の水質を大事にする田舎者と馬鹿にされる。けれども、その馬鹿にする人たちもダムの建設をすすめる国も、この地方の暮らしをどれだけ知っているというのだろう。鮎の腹が綺麗なことを誇りに、この盆地の中で山向こうの世界に想像を飛ばしながらコツコツと生計を立てて暮らしている。焼酎のブランドがあって、お米が美味しくて、川くだりの激流が楽しくて、確かに牧歌的な山里だが、そこに暮らす人々の性格はどこか陰気でお山の大将でプライドが高くて夢見がちでお互いに足を引っ張り合ってどうしようもないけど、暢気になんか生きていなくて、学校でも会社でもいじめもある。だけど、災害の時はいち早く団結できる。この街の再生をただ、雲の上のお上(おかみ)に任せるのが正しいことだろうか。なぜ、川そばに城を作り街を作り、山のそばに畑を作り、道を作り、酒を飲み、川魚を食べ、この街の文明と文化ができたのかを知っている人にこの街のことを考えてほしいのだ。

この地方の暮らしをよくする知恵が自分にないことはまだ中学生の鮎美も薄々わかっていた。自分は多分、世の中を変えられない平凡な大人になるだろう。けれども、この山里の住人らしく、夢を見て暮らすことは許されるのではないだろうか。

歯抜けの街。鮎美には市街地の街並みがまるで赤ちゃんの早矢の口の中みたいに自力で生きるには、歯が足りないように見えた。たとえダムを作ったとして、それが街を生かすことになるだろうか。けれども、このまま駅前に何もなくなってしまうのはあまりにも悲しい。

キイロの散歩から帰ると、鮎美はいてもたってもいられず、ジオラマ作りに取り掛かった。もう大樹も海人も鮎美もそれぞれの取り組みを始めて、どこに向かっているかわからなくなっているジオラマ作りで、鮎美はなぜそれを続けているか自分でもわからなくなっていた。けれども、椚のなくなった道路を見て、市街地の姿を思い出し、自分の夢の町をジオラマとして作りたいと思いついた。大樹がダムのある町やない町リアルな将来の姿を作り、海人が今までの町の姿を残すというのであれば、鮎美は自分だけの夢の町を作ればよいのだ。

寝る間も惜しんで部屋に籠って何かしている娘をてっきり勉強に夢中になっているのかと母の道子はしばらく考えていたようだ。しかし、夜食を差し入れしたらジオラマを作っているのを見て、内心がっかりしてしまった。

「てっきり勉強に目覚めたかと思ったのに。きちんと寝てほどほどにしなさいよ」

「テストは終わったからもういいでしょ!」

言わない方がいい内心をつい口にして娘に怒鳴り返されても、怒っては逆効果かと思い、道子は怒りに蓋をした。成績が下がったりしてショックを受けるのは道子たちより鮎美本人なのだ。

鮎美自身もジオラマ作りに夢中になりすぎて学校の授業が眠くなってしっかり聞けてないのは自覚していた。そのために、授業の予習や復習をしなければならず、さらに睡眠が減って悪循環だ。しかし、紙で手作りするだけでなく、便利な100円均一ショップでお店の小さな模型などを大量買いして作ることを思いついてもなおどうしても自分の理想の街並みの目途がつかず2週間近く四苦八苦していた。

そして、早矢の世話を頼まれたその日も、どうしても夕べ作ったジオラマに手を入れたくなり、少しだけと思って、早矢を居間においたまま、部屋に戻ってジオラマ作りを始めた。5分と思っていたのが、10分になり、30分になった。そうして、気づいたとき、すぐ近くに早矢の声が聞こえた。

「いつの間に入ってきたの?」

胡坐をかいて早矢を膝の上に乗せて妹の気配にすら気づかないほど集中していた自分に呆れるだけでなく、何か清々しさを感じていた。そうやって、集中が切れてぼうっとしばらく早矢のふくふくした手を弄んでいたが、床に目を落として違和感を覚えた。何かがない。転がしていた、息抜きに爪楊枝を差してコマにしようと思っていたどんぐりがない。

鮎美はすっと背筋が冷たくなるのを感じた。まさか、早矢が食べて呑み込んでしまったのではないだろうか。いや、それなら、こんなに何でもない風に笑っていられるわけがないだろう。でも、もし、本当に呑み込んでいたら大事ではないだろうか?

鮎美はきょろきょろと視線をさまよわせたが、近くにどんぐりが転がっている様子はなかった。そもそもじっと集中していた鮎美はほとんど身じろぎすらしていないのだ。見えないところまでどんぐりが転がっていったとは思えなかった。

どうしよう、鮎美が母の道子に電話をかけようと立ち上がったとき、ちょうど玄関の戸が開く音が聞こえた。

「あゆみちゃん、おるねー?」

おおおばあちゃんの声だ、と思った時には鮎美は駆けだしていた。

「おおおばあちゃん、おおおばあちゃん、早矢が、早矢が、どんぐりを飲み込んだかもしれない!」

鮎美が声を震わせて叫ぶように言うと、皺に埋もれたりつ子の目がクワッと猛禽類のように吊り上がった。

「かしなっせ!」

鋭く声を発して鮎美の腕の中から早矢を奪いとって横抱きにすると、その口の中に指を突っ込んだ。早矢が苦しそうにむせた。それをじっと見たりつ子は膝の上に早矢を乗せてトントンと叩いたが、さらに逆さにしてドンドンと激しく背中を叩いた。早矢が火がついたように泣きだした。りつ子のあまりに乱暴な仕草に鮎美は止めるべきか迷ったが、どうしても身体が固まって動けなかった。

そして、何度かりつ子がそれを繰り返すうちに早矢の口からポロッとまん丸のどんぐりが落ちてきた。鮎美はほっとして足から力が抜けそうになりながらも、やっとりつ子から早矢を抱きとろうとした。しかし、りつ子は早矢を渡さず、鮎美を睨んだ。

「ちゃんと見とかんとわからんろーが」

腹の底から響くような怒声だった。りつ子に面と向かって叱られるなんて初めてのことだ。けれども、鮎美は怖いよりも恥ずかしいよりもほっとして泣いている早矢と同じくらい大粒の涙を流してしゃくりあげた。

「泰子に車を出してもらって、病院に連れていかんとならん。みっちゃんにはあゆみちゃんの電話しなさいよ」

「電話する。病院にもついていくから」

鮎美は近くの椅子に掛けてあったタオルでごしごしと涙を拭いながら力強く言った。

病院について早矢の診察を待つ間があっという間に感じられた。その間に病院に道子が来たり、帰って状況を説明させられたり、誤飲で肺炎で死ぬこともあると諭されたり、いろんなことがあったはずだが、翌朝になるともう朝で昨日のことが夢のように感じられた。

朝食の席で、母に昨日のことを再度注意されるということもなかった。ただ、学校から帰るとすでにりつ子と泰子が居間に座っていた。

「あゆみちゃん、昨日は大変やったねえ。これから気を付ければ気にしないでいいわよ」

泰子が優しく声をかえてくれたが、さすがに昨日の今日で気にしないという気にはなれなかった。

「私、もう早矢の面倒一人で見るのは自信がない。おおおばあちゃんがいつもいてくれたらいいのに」

鮎美が気弱くなって言うと、りつ子は早矢を腕の中で揺らしながらくつくつと口の中で笑った。

「そら、おばあちゃんたちのいますぐ死んだらどぎゃんすっとね。ただ、もしかしたら怪我したり死んだりしたかもしれんけん、気を付けんばいかんよ。それでも、無視されるよりお姉ちゃんに世話される方が早矢もうれしかろうもん」

りつ子の隣に腰を下ろしながら、鮎美はそれでも納得いかずにテーブルを見つめた。

「慣れたおおおばあちゃんたちより私に世話される方がうれしいかな」

鮎美は以前盗み見た母の日記を思いだした。決して姉として妹をないがしろにしたつもりはないが、自分のことを優先して早矢から目を放したのは身勝手だった。ジオラマなど小さいものを早矢のそばにおいてはいけないと分かっていたが、そもそも一人で部屋に籠るのがありえなかった。別に眠っている早矢のそばでテレビを見ても勉強していてもよかったはずだ。

「そら、年の功やもん。ばあちゃんの方が世話の上手かたいね。でも、だれでっちゃ放っておかれるより構われた方がうれしかろ」

「そうね」

りつ子の言葉に鮎美は素直に頷いた。やってしまったことは取り返せないが、もう同じ失敗をしないようにすればよいのだ。早矢のことがなくても最近鮎美はジオラマにのめりこみすぎて他のことが疎かになっていた。部活に出向いたら、みんなから久しぶりと言われたくらいである。

「おおおばあちゃん、わたしも早矢に靴下編もうかな。作り方教えてよ」

「そら、あゆみちゃんなむずかしかけん。まずは自分のマフラーにしなっせ」

りつ子はつれなく言って、またくつくつと笑った。鮎美もつられて笑いながら、寝不足でしょぼしょぼした目を夕日に暮れなずむ縁側の外へ向けた。おやつを食べて落ち着いたら暗くなる前にキイロの散歩に行かなければならない。


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