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【小説】さよなら川辺川 ⑫

熊本地震から5年。その日は、毎年旅館『霧の奥』ではたくさんの灯篭を飾ることにしている。例年であれば、灯篭の手作り講習会を近所の人に開いてもらっていたが、今年はコロナ禍で感染防止のため、竹灯篭が前日に設置されたことすら鮎美は気づかなかった。

「おおおばあちゃんの名前って何だっけ?」

「りえ子・・・いや、りつ子だったわ。おばあちゃんとしか呼ばないからつい忘れちゃうのよね」

自分のおばあちゃんの名前を忘れるなんてと呆れながら、鮎美は正座でしびれた足先をしきりに動かした。とはいえ、目の前にこうして本人がいても鮎美だっておおおばあちゃんの名前をすぐ忘れる。りつ子の詩吟を聞かされるのがここ1ヶ月ほどの林家の日課だった。最初はもの珍しかったものの、1ヶ月もすればうんざりしてきた。山王に至っては、おおおばあちゃんの詩吟を聞くことを3日で放棄して目の前で堂々と宿題をしたりしている。鮎美もいっそ弟の真似をしてスマホでもいじってしまおうかと思うのだが、なかなかそう大胆な行動には移れなかった。

介護老人ホームで鮎美がりつ子の知り合いの花江に会って、母の道子はすぐにりつ子に連絡をした。りつ子本人というより、りつ子と同居している娘の泰子に電話したのだ。りつ子は耳が遠いから固定電話すらほとんど出ない。スマホでメールをするのも上手くできない。一方で、お謡いもお華も踊りも師範の腕前である。料理も上手で、母の糠みその漬物は食べない山王は、りつ子がきてから漬物ばかり食べるようになり、塩分の取りすぎだと母に注意されるほどだった。鮎美はりつ子の白和えが好きで毎日のようにリクエストしている。毎朝の詩吟だって、それを思えば耐えられる。煮物だってりつ子は上手で、最近は隣の槻木家に頻繁に料理をおすそ分けしているから、大樹の母の梨江は夕食をほぼ作らなくてよくなったからとお菓子作りにはまっているらしく、それを林家によくおすそ分けしてくれる。りえは最近趣味のお菓子作りができるようになったせいか、以前より表情も明るく、偶にりつ子に洋裁を習いにきている。りつ子は和裁や洋裁も得意で、最近は林家の全員がりつ子お手製のチョッキを着ているのが、鮎美は少し恥ずかしかった。詩吟とチョッキはあんまりだけれど、朝ごはんの白和えも昨日もらったリンゴパイをおやつの時間に食べるのが待ち遠しい。もうこのままずっとりつ子が家にいて当たり前のような気がするが、そういうことはない。

りつ子の娘の泰子が新型コロナに感染して入院したのだ。泰子は道子が連絡したときに、「ちょうど体調がよくなかったからお母さんを預かってもらえると助かるわ」と言って、その日のうちに道子は車で祖母を迎えに行くことになった。泰子はおらず、念のためにコロナのPCR検査を受けてくるという書置きがあり、その数日後に泰子の感染が発覚した。何でも1週間ほど前に、他県から帰省した友人に会ってその友人から移ってしまったらしい。その友人と言えば、葬式のために帰省した大学生の孫から感染していたということだった。友人から連絡を受けてよほど気をつけていたのか、幸いりつ子は感染する前だった。それでも、しばらく道子とりつ子は自分たちも検査の予約をいれて陰性がわかるまで離れで1週間ほど隔離生活を送っていたのだが、その間に道子のおばあちゃん大好き熱がずいぶんと高まってしまった。

おかげで鮎美は、母の隔離生活の間妹の早矢のお世話に奮闘したばかりか、朝もはよからりつ子の畑仕事や朝ごはん作りを手伝わさせられることになってしまった。きっと二人の隔離生活の間に学校が遅い夏休みに入ってしまったのも運が悪かったのだろう。

「鮎美はしっかりしてるし、おばあちゃんがいれば早矢の面倒は大丈夫」

そう言って道子は最近旅館の仕事に精を出していた。かといって、道子は鮎美に祖母がやることすべてに付き合えといったわけではないのだが、夜が明けるとすぐに持ってきた苗木の世話をするおおおばあちゃんの姿を見せられてから、何となくその後ろをついて回るのが鮎美の習慣になってしまった。今年、92歳になるりつ子は、とんでもない働きものだ。朝は畑を耕し朝ごはんを作りぬか床をかき混ぜ、浅漬けを作り、詩吟をし、赤子の早矢の面倒を見て、ぬいぐるみまで作り、涎掛けを何枚も縫い、昼は梨江の差し入れのお菓子でさっとご飯をすませたら、庭木の手入れをして道子や梨江に繕い物やお華やお茶や踊りなど教え、そのあとまた畑に出て、道子の夕飯づくりを時折手伝うか早矢の相手をし、売り物になりそうな折り紙作品を作り、眠りにつく。目が不自由なのでテレビはほとんど見ることはなく、一日手を動かしているのだ。おかげで、夏休みになってから、鮎美もほとんどテレビを見なくなった。再放送の時代劇だけ、おおおばあちゃんと何度か一緒に見た。学校が始まったら、みんなの話題についていけなくなりそうだが、もともとあまりついていけてなかったので、その点は問題ない。ただ、りつ子と一緒にすごしていると早寝になって読書する時間が少なくなったのは少し気にしていた。宿題はもう夏休みが始まって5日で終わらせてしまったが、少しは勉強しなければならないと思っていたので、道子たちがりつ子からあれこれ習っている間や夜寝る前に少しだけ通信教育の教材に取り組んでいた。2学期の期末テストの学年順位が27番に落ちてしまったのだ。中間テストはみんなが勉強する暇がなかっただけだったので、落ちるだろうとは思ってはいたが、予想以上だった。普段勉強に口を出さない両親だが、前回2番だったことを父の勇は内心ずいぶんと喜んでいたらしく、珍しく小言をいってきた。

「新聞委員とかそういうことばっかりに熱心だから、順位がそんなにおちたんじゃないか?」

「はあ?中学に入っていままでがたまたま良かっただけだよ。塾に行っている人もいるし、大雨でみんな勉強してなかったもん。前回が出来すぎだったの」

そう言い返したものの、やはり自分でも悔しかったのか、鮎美は父に言い返しながら泣いてしまった。それで言い過ぎたと謝ってくれる父ではなかったが、その日からまだ勉強に口を出してくることはなくなった。勉強しろと言われないと、それはそれで勉強のきっかけがない家庭環境だからいろいろ自己管理が大変である。鮎美は最初母達と一緒にりつ子から洋裁など習おうとしたのだが、道子に邪険にされてしまい、それ以来参加しなくなった。

「鮎美にはまだ難しいわよ。100円均一ショップとか初心者でもできるやつが売ってあるでしょ。それで小物でも作ったら。勉強時間だって必要でしょ」

強い言い方ではなかったけど、「まだ難しくてできない」と母に決めつけられたことが鮎美の癇に障った。「じゃあ、もうやらない!」と怒鳴り返して部屋に引きこもったものの、その日の晩のうちには梨江も来ているのにあまりに自分が初歩的な質問ばかりしても3人の作業を止めてしまうのだろうと気づいて、翌日に素直に100円ショップに自分にできそうな簡単キットを買いに行った。簡単をうたわれても鮎美には十分に難しかったので、水筒入れを一個作ったきり、買った道具はまだ放置されていた。それでも、おおおばあちゃんに聞いて習うほど難しい内容でないことはわかっている。

おおおばあちゃんが来てから夏休みにもかかわらず、鮎美の毎日は忙しく充実している。それが誇らしい反面、煩わしくもある。毎日の詩吟の時などは、「ごはんだけ届けてくれて、早く家に帰ってくれたらいいのに」と思うこともある。だが、それを面と向かってりつ子には言えなかったし、実際帰ってしまったら、自分が以前の怠惰な生活に戻るだけでなく、りつ子のいない喪失感に悩まされることになるだろうことも鮎美は薄々自覚していた。だから、おおおばあちゃんを追い出すわけにはいかない。

だけど、大樹の畑にまでりつ子が手を出したことに鮎美はどうしようもない憤り感じ、最近その負の感情を持て余していた。

「おばあちゃん、だいちゃんの畑に勝手に除草剤なんてまいたらダメだよ」

鮎美は昨日の不満を朝食の席でとうとうりつ子にぶちまけた。

「除草剤を撒いただけったいね。ばってん、野菜の虫も酢ばかけただけじゃなかなか取れんとよ」

りつ子は口の中の胡瓜を咀嚼し終わってから、静かに鮎美に反論した。もとはと言えば、梨江にぜひ大樹にアドバイスをしてやってほしいと頼まれてりつ子は隣の槻木家の畑に自由に出入りするようになったのだ。けれども、大樹がそんなアドバイスをあまり求めていないことを鮎美はなんとなく知っていた。完全無農薬の有機農法というのを大樹は目指しているのだ。確かに雑草はたくさん生えていたが、それは畑の周りだったし、そのことを知った大樹はショックを受けた顔をしていた。大樹は庭木に限らず雑草に蝶などの虫や鳥など来る様を見るのが好きなのだ。

「梨江さんがいくら頼んだとしても、だいちゃんに聞いてからしなきゃ。だいちゃんの畑なんだからね」

りつ子にじっと見つめられると、激高しかかっていた鮎美の口調も少し落ちた。大樹の畑はどんどん広がっていろいろな作物が植えてあるが、鮎美の目から見ても植えすぎなようですでに収拾がつかない状態なのではないかと思っていたのだ。その一方で耕されていない区画も広く、大樹の家は草取りまでなかなか手が回っていないのも事実なのだった。無農薬で虫もつかないように綺麗にまるまると作物を育てるなんてそう簡単なことではない。

「わかったよ。そんなら、今日はだいちゃんとこに行くのはやめとくね」

不満そうな顔をしていたものの、明日りつ子にまた来てほしいと言ったのは、大樹の方だった。我が家の庭や畑が綺麗になれば、梨江だって喜ぶだろう。勇は野菜に詳しい近所のおじさんをわざわざ誘ってくれると言っていた。そこまでお膳立てされて行かないわけにはいかない。とりあえず、おおおばあちゃんに一言いわなければ、鮎美の気が収まらなかっただけなのだ。

「行くよ。でも、その後はちゃんと花江さんのところにも行くんだからね」

鮎美がご飯といっしょにいろいろ呑み込んで言うと、「だんだんなあ。だんだんなあ」と呪文のように言って、りつ子も食事を再開した。道子も山王も勇も早矢もいないりつ子と二人っきりの食事なんて初めてだったのに、もっと楽しい話をすればよかったと鮎美が後悔したのは、花江に会いに父の車にりつ子と乗ったときのことだった。

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