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【小説】さよなら川辺川 ⑰

母が働きに出ることになった。豪雨のボランティアが一段落してきたら、またコロナという疫病が猛威を振るってきた。国から自粛要請が出されているので、旅館を正月明け、少なくとも1月まで閉めるというのだ。父はその間よその事務のアルバイトや細々とやっている釣り堀やら庭の畑やらの世話をするという。

問題は、早矢の保育園の迎えをどうするのかということだった。

「私が迎えに行くよ」

鮎美は自らすすんで申し出た。早矢が通うという保育園は家から1キロほどの距離しかない。学校帰りに自転車に乗せて帰るのは不安だから、家に一度帰ってから、迎えに行っておぶって帰ってくればよい。それも父の手の空かないときで、毎日でなくてもよいし、それこそ一時的なことだと鮎美は信じていた。

『私の代でこの旅館を潰すわけにはいかん。もうあなたのお爺さんの代から3代以上続いてきた旅館でしょ』

深夜に父と言い争っていた母の言葉を鮎美は聞いていた。旅館がなくならないのなら、母がずっと外に働きに出るということはない。1歳で保育園に行くのは早い気がしたが、母によると生後半年から預けられることもあるという。

「俺の方が早く帰れるから、俺が学校帰りに迎えに行った方が早いよ」

「あんたは、迎えに行っても家に帰ってから早矢のミルクとかおしめ替えの面倒とか見られないでしょうが」

鮎美が諭すと、山王は太い眉を顰めて気を悪くした顔をした。

「お姉ちゃんは部活があるやろう。毎日部活せんで早く帰るわけにはいかんやろ」

山王が自分を気遣ってくれたことに気づいて鮎美は驚いた。そんなことは生まれて初めてな気がした。

「まあ、山王もおしめ替えやおむつ替えはすぐ覚えられるでしょう。どっちか早く帰る方で、構わないわよ。というか、部活で迎えに行けないなら、家に電話してくれると助かるんだけどね。携帯電話でその時はお父さんに電話して」

道子の言葉に鮎美と山王は頷いた。小学生の山王はスマホをまだ持っていないが、子ども用の携帯電話を学校に許可されて持っていっている。対して、鮎美たちは中学生になって学校にスマホの持ち込みはあまり推奨されていた。ダメとは言われていないが、学校でもし鳴ったら没収されて職員室に呼び出される。その説教が怖くて持っていかない生徒も多かった。そもそも学校からタブレットを支給されているので、それでメールが使えたら良いのだが、学校はネット環境が悪く、先生に許可をもらわないと使えない。だから、連絡用にスマホはいらないと説明されても、一部の生徒は塾とかの帰りの連絡もあるので学校にスマホを持ってきている子も多かった。

最初は何度か山王が先んじて、早矢を迎えに行ってくれた。その間に鮎美は部活の記事の内容の会議を開き、記事を書いたりする作業を家でやる許可をえた。その辺は今までもそうだったから問題ない。ただ、内容の変更は昼休みに集まって相談ということになったから、その点は部員に申し訳なかった。ただ、思っていた通り、早矢の迎えはほとんど鮎美の当番になった。山王が一人で迎えに行ったときはずいぶんと保育園の先生たちに心配され、抱っこ紐をぐるぐる巻きにされてしまったのも恥ずかしかったようだ。山王は背の順で並ぶと学校では一番前だ。性格はともかく見た目は小学4年生にしてはずいぶんと幼いから先生たちが心配になったのも無理はない。それでも友達や学校の先生から評判になってえらいえらいと褒められたのは満更でもなかったようだが、やはり羞恥がまさったのか、鮎美が早く帰ってきた日に一緒に行ってほしいと頼んできてその1回で二人で行く必要はないと思ったのか、頼まれない限りは鮎美に任せると決めたようだった。

むしろうんちのおしめ替えとかは手伝ってほしいのだが、そういう時に限って遊びに行っている。ある時には遊びにきた大樹がおむつ替えをしていて山王はおやつを食べていたので、それを目撃した鮎美と口論になった。

「だいちゃんがやりたいって言ったんだ」

「そう言われても断りなさいよ。本心なわけなかろうが」

上から目線で姉貴風を吹かせる鮎美にずいぶん腹が立ったようで、山王は反論できずボロボロ泣いていたが、謝りはしなかったもののその翌日は母の道子がいるときでさえ早矢の面倒をすべて見ていたから少しは鮎美にばかり任せて悪いと思ったのかもしれない。ただし、その日以降はやはり元の木阿弥であった。

早矢の世話を手伝えと日々山王に文句を言っている鮎美ではあったが、早矢の迎えに行くことが少しも嫌ではなかった。早矢をおぶってゆっくり歩いて、道の先を見ていると私が住んでいるところはなんと美しいのだろうと思った。

保育園の大木の銀杏からはらはらと金色の扇のような葉が落ちる様子も、そこからの道程にただひたすら畑が続き、夕日が落ちかかっている様も日本で一番美しい里山はここではないかと鮎美に思わせた。ずっとつづいていくまるで街路樹のように誂えられたエノコログサの草原から一つ引き抜いて、見えない猫と戯れるように風に金色を遊ばせれば心は清らかに澄み渡り小さい頃に信じていたように植物の妖精たちと話ができるような気がした。

雑草には寄生虫がついているから道草に触ってはいけないと言われるけれど、ダメと言われればやりたくなるものだ。しかし、まだ幼い早矢にはばい菌がついたものを触らせるわけにはいかないので、目の前で見せつけるように遊ばせて面白そうに妹が目を輝かせているのが快かった。けれども、時折、川底に揺らいでいる川魚を幼い妹にみせようとのぞき込むとき、眼下に整然と積み上げられた土砂が鮎美の心に影を落とした。以前浅くなった川底のままで来年の梅雨の時期をこの球磨川の里は乗り越えられるのだろうか。鮎美は疑心暗鬼にとらわれずにはいられない。ダムの説明はいつも良いことばかりが言われているけれど、大人の言葉をそのまま信じて良いものだろうか。だからといって、大人になった自分がこの先もっと良い提案をできるとは思えなかった。別に鮎美は治水工学に興味があるわけでもない。ただ、平凡にこの故郷に暮らすだけの小娘なのだ。

早矢と二人で歩くたった30分ほどの道程の間に、鮎美は様々なことを考えた。それは、机に向かっているときよりもずっと思考を集中させた。記事の案についてもいろいろと思いつくものの話すきっかけのないまま、家に帰って喜び勇んで書きなぐったものを鮎美は引き出しにしまったままにしていた。そして、なんとなくむしゃくしゃした日に、冬近いというのに、髪を切りにいった。コロナで散髪を控えていたからずいぶんと久しぶりでさっぱりした。心のつかえも少し取れたようだった。

「1月の終わりには離れが完成するよ。おおおばあちゃんも正月くらいからまらうちに戻ってくる。泰子おばさんと一緒に離れでうちに住むからな。その前には旅館で仮住まいしてもらうけれど」

「へえ、旅館を独り占めかあ。いいなあ」

山王は無邪気に言ったが、鮎美はただ、食卓での父の宣言を冷静を装って聞いていることしかできなかった。うちに住むということは、おおおばあちゃんたちは長年住んだ家を売ったのだ。それはうちのためだったに違いない。うちがコロナで大変だからだということを母達の話の断片から想像できても、鮎美はそれを口に出しては言わなかった。りつこは孫の道子を殊の外可愛がっている。それはいつか母の日記に書いてあったように、道子に末っ子の悲哀を見ているからだけなのだろうか。それとも、旅館に嫁いで苦労していることに同情しているだけなのだ。とりあえず、電話口の感じからすると他の親戚とは少し話に時間がかかったようだった。

客も中居もいない20室もある旅館をで娘と二人っきりで過ごすのは怖くはないだろうか。鮎美はおおおばあちゃんのことがふと心配になった。もし、夜に心細いようなら遊びに行こう。というか、食事なんて一緒にとればいいのだ。疫病なんて、なんだ。家族は一緒にいるものじゃないか。

「おおおばあちゃんたちが来たら、一緒に年越しそばと雑煮を作るからお母さんは早矢のお世話していたらいいよ。おおおばあちゃんに作り方教えてもらうって約束したから。先祖伝来の味といやつね」

鮎美が殊更明るく言うと、道子もその作り笑いにはさすがに気づかなかったのか嬉しそうに笑った。

ただ、一日一日と日が過ぎ、おおおばあちゃんが来るのを防寒着にくるまれた妹を背負って鮎美は待ち遠しく思っていた。

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