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【小説】さよなら川辺川 ⑯

母の道子は、本日機嫌が良かった。久しぶりのことである。おおおばあちゃんのりつ子が家に戻ってから言葉数が少なくなった。そのうち家を売り払って離れに住んでもらう予定であるので、それまでの辛抱と寂しさを耐えていた。鮎美としては、おおおばあちゃんは厳しい性格で、おおおばあちゃんがいると学校の愚痴も話せないし、学校を休むこともできない。おおおばあちゃんがいると食卓とか家での生活は充実するが息苦しくもあったので、少しだけならいないのも良い。今までいないのが普通だったのに、そんなに気落ちする母の気持ちが分からなかった。

道子は、近所の人から丸々太った大根と鮭の切り身をいっぱいもらったのがうれしかったようだ。鮎美もうれしかったので、母がそれを鍋にしてくれる間喜んで早矢の子守りを引き受けた。槻木家も呼んでの鍋パーティーだ。最近父の勇は大樹の父の光太朗に蔵の改修の相談をしている。知り合いに頼んで安くしてもよいし、簡単なものなら光太朗が手伝うというのだが、あまりに親切な申し出なのでかえって恐縮して勇は悩んでいるようだ。けれども、道子の方が早くやってくれとせっついている。

「今年最後の焼きナスねえ。大樹君さまさまだわ。おいしそう」

もうすぐ12月だというのに、まだ大樹の畑になり続けたド根性茄子である。おおばあちゃんのりつ子特製の味噌をつけて食べると甘くて本当に美味しかった。道子ではないが、茄子はやっぱり焼きナスに限ると鮎美も思う。

道子は野菜が好きである。料理と言えば炒め物でも煮込みものでも台所にある野菜のほとんどを放り込んでしまうようなところがある。組み合わせ的に合わないなと思っても、残すと言えば烈火のごとく怒るから、そうそう残せもしない。けれども今日は大樹たちがいる。大樹がいれば、「食べられるものだけ箸をつけたら良いからね」と道子がいうので、大樹の陰に隠れてお残ししてもバレることはない。大樹には言えないが、そういう理由で大樹がうちでご飯を食べるのを鮎美と山王は大歓迎していた。

大樹は小食である。胃腸の病気があるから仕方がない。しかし、大樹に言わせると鮎美たちのところに来ると、見ているだけで満足感があって、あれもこれも食べられないことが気にならないのだそうだ。そんなに箸をすすめなくてもいつの間にか食事が終わっている。それが良いのである。

鮎美には食べないでただ眺めて満足を得るということがどういうことかわからない。冬の野菜は季節外れでしんなりして艶がない。けれども、野菜をただ眺めるということに関しては鮎美も思い出があった。

小学校5年生の時に学校の写生大会で玄関先に置かれたいただきものの籠一杯の野菜を描いた。それは学年代表に選ばれて、県で金賞まで獲ったのだが、同級生には不評だった。もとより鮎美は不器用で、丁寧に一生懸命は描いたけれども、その頃の歳の絵の上手い小学生がすでに習得しているかすれさせるとか点猫とか基本的な遠近とかの技術は何も持ち合わせてはいなかった。

まず野菜なのに美味しそうじゃないと周囲に言われた。白っぽくていがいがで突き刺さりそうだというのだ。確かに今見てもその絵は写実的ではなかったかもしれない。しかし、鮎美の心象風景はよく映し出されていたのだ。鮎美にとって身近な畑の野菜はイガイガして白い点々があるものだった。胡瓜は言うまでもなく茄子のヘタもトマトのヘタもちくちくするし、むしろ奇妙につるんとしているピーマンに限って、畑で苗に一杯虫がついていたりする。だからピーマンの上には毛深い虫を描いたのだが、それも遠近がなっちゃいないから、確かに大きすぎた。小さくわかりやすく昆虫を描くのは難しかったのである。白っぽいのは糖度が高い。果物などは白く粉をふくのだとテレビで見たことがあったから、野菜もそれが良いのだと思っていた。トマトのざらざらしたところは白い点々であらわされるような気がしたし、割れた白い亀裂が面白いようにも感じだ。ヘタが割れたトマトの方が緑や黄色が混じってカラフルだった。熟していない青いトマトの方が何となく青臭いトマトの香りも伝わるような気がしたものである。甘そうに見えるかと思って白っぽく描いた梨や桃の果物の出来には大満足だったが、いただきものの籠に実際果物が入っていたわけではないので、付け足したのだ。果物は白いビニール袋で置かれていたが、白い袋を自分が絵に描けるとははなから思いもしなかった。鮎美にとっては初めての写生の経験だったが、母に何度か連れていかれた美術館には籠に入った果物や野菜や、テーブルの花瓶などがたくさん描かれていたので、そういうものを写生とは描くものだと思ったのだ。だが、確かにみんなが言うように学校で写生をしたのに、家の玄関先を描いたのはおかしかったかもしれない。学校の校舎全体を描くような大仕事は鮎美にはとてもできるような気がしなかったのだ。校庭のたくさんの樹木も同じである。だから、見慣れた玄関先を描いた。ワザとのようなきれいに整った丸足の丸いテーブルに籠の中の野菜が描かれているよりは、玄関先の野菜の方がずっと現実的で写実的だという風に鮎美には思えたのである。

鮎美のその考えを母の道子はよく理解してくれた。可愛くはないがよく”写実的”で描けていると道子だけは褒めてくれた。いや、鮎美のその思考を学校の先生である大人たちもよく理解してくれたから、鮎美の絵を学校代表に選んでくれたのだろう。だけれど、鮎美は母の言うように大人になったら自分のことを同じ年ごろの人が理解してくれるという楽観的な未来予想は持てなかった。学校でやる写生大会で、学校がうまく描けないからと自分の家の玄関を描いてしまう自分の発想と価値観を大人になっても他人は理解してくれないのではないかという漠然とした不安を鮎美は中学生になった昨今抱くようになった。

それは、最近母の日記を読んでしまったからかもしれない。道子は常々文章を書くのが苦手だといい、悪筆のため、通知表の保護者欄を小学校高学年の時から鮎美に文章を考えて書かせるくらいだったから、母がそれほど長い日記なんてものをつけているのが、鮎美は意外だった。ただ、その内容はもう数年か数か月以上前のもので、亡くなった両親、つまりは鮎美の祖母に関することが書かれていたが、それは読むのがつらくて読み飛ばした。なぜなら亡くなる前にやはり、亡くなった祖父の日記を箪笥から見つけて、母と亡くなる直前に折り合いが悪かったため、母の悪口が羅列されているのを見て、途中で読むのをやめてしまったということがあったからだった。そう悪口の内容には思えなかったが、それでもやはり自分の祖父に対する母の悪口がたくさん出てきたらと思うと怖かったのだ。鮎美は古い小説を好んで読むため、大体の学校でまだ習っていない漢字もよく読めたのだ。

ただ、その日記には鮎美がどうしても読み進めでしまう内容が書かれていた。おおばあちゃんのりつ子が道子に同情心を抱いているというのだ。

”おばあちゃんは、末娘の末娘である一番下の私に自分を重ねている。それはおばあちゃんの娘時代の話を聞いているからよくわかる。本当のところ、孫たちの中で私が一番しっかりしているから、おばあちゃんに気に入られているというわけではない。ただ、おばあちゃんは同性の兄弟の上にいる末っ子の惨めさをよく理解しているのだ。おばあちゃんがよくする防空壕の話が私は好きだ。何回聞いても飽きない。空襲の難を逃れるため、防空壕の中に人々は籠っていたが、少ない缶詰ではとてもみんなの腹を満たすことはできなかった。おばあちゃんが背負っていた籠にはまだ小さいサツマイモの実と蔓がたくさん入っていた。火打ち石も持っていて、おばあちゃんはその防空壕のそばで小さい頃からよく遊んでいたので、その洞窟をどう抜ければ水があるかもわかっており、水脈を見つけてお湯を沸かすこともできたのだ。おばあちゃんに対して特別感謝する人もいれば何も言わない人もいたけれど、誰も飢え死にを出さなかったのは、おばあちゃんにとって、自分が英雄となったような貴重な体験であった。おばあちゃんは一人洞窟を抜けて山から秋の実を取ってきたりもしたのだ。しかし、おばあちゃんがそんなに山のことを知っていたのは、おばあちゃんが子どもの時からよく山に逃げ込んでいたからだ。特に疎開して帰ってきたおばあちゃんの姉たちは、おばあちゃんを自分の子どもたちの子守りのように扱った。子ども同士仲良く遊べば良いという親切心もあったのかもしれないが、実際にはすでに女学校に通う歳であったおばあちゃんにとって遊ぶという行為は子守り以外のための何物でもなかった。遊んでやった姪っ子甥っ子たちの繕い物やおもちゃの修理、お昼ご飯の準備まで全部おばあちゃんの仕事だったのだ。その上で、姉たちは母親には新品の服をお土産に持ってきてくれたが、おばあちゃんにはやはり自分たちのお古を下げ渡すだけだった。それだって、姉たちが手づから繕ってくれるというわけではなく、おばあちゃんが自ら自分に合うように直さなければならなかった。戦争中とはいえ可哀そうなことをしたとだいぶ経ってから姉の一人は謝ってくれたらしいが、自分が放っておかれた子だという思いはずっとおばあちゃんの中にあったのだ。もう皺に埋もれてわかりづらいが、おばあちゃんの頬にはよちよち歩きしていた頃、火鉢に落ちてできた火傷がある。母におぶわれて医師に連れてってもらったのが、おばあちゃんの一番の古い記憶である。また、おばあちゃんには右腕にも火傷の痕があって、これはいまだに鮮明だ。4つか5つの時にお湯を沸かそうとして、薬缶からこぼしてしまったのだ。今のようにガスレンジとかオール電化の時代ではない。それほど、痛い思いをしていながら、おばあちゃんは火桶や火鉢が好きである。囲炉裏がある家が良いと私にすすめる。それはおばあちゃんが自分の痛い記憶を何ほどのものとも思っていないからだ。おばあちゃんは結婚してからも苦労の連続だった。そもそもが断るはずが、さらわれるように嫁にいき長男の夫の子どもたちの面倒を見なければならなかった。酒を飲むと暴力癖のあった夫が、他人には慕われ勉強好きで汽車の機関区長になったことがおばあちゃんの誇りである。末娘の名前くらいしか知らなかっただろう父や姉たちの夫よりも自分の夫が一番出世したからだ。おばあちゃんにとって、火傷は人生の記憶の中のほんの1ページに過ぎないのだ。私は囲炉裏の似合うような古い家屋で暮らす予定ではなかった。確かに囲炉裏には憧れるけれど、おばあちゃんの火傷のことがあるから子供たちを近づけさせるのが怖くて、いつまでのそのままにしてきたら、そろそろ囲炉裏を作ろうというときに、代わりに子どもができてしまった。鮎美はしっかりしているから、早矢をわたしたちのような惨めな思いをさせることはないだろう。けれども一回りの歳の差があるので、早矢が大きくなってきた頃は鮎美たちは家を出てしまっている。末っ子の呪縛とでも言うのだろうか。やはり寂しい思いをさせそうだ。おばあちゃんの山は私にとっては子ども時代の図書館かもしれない。しかし、今は図書館がない。きっと私は今も逃げ場を作った方がいい。こんな古い旅館の切り盛りを果たしてするつもりなんかなかった。社交的な性格とは言い難いし、本当に何も考えずに周囲のすすめで結婚してしまったものである”

母の愚痴が始まったところで、鮎美は日記を閉じて、それ以来その日記を再び見てはいない。自分自身母の思い出話をどうとらえたかは不明である。けれども、周囲と打ち解けない懊悩は長女の自分だけでなく、小さいときから周囲にたくさん人がいた末っ子にでもあるものだと理解したのであった。

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