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「365日の広告コピー」と私の10年

10年前、東京で働いていた頃は、広告は身近なものだった。

数年前までは福岡で働いており、やはり広告と無縁というわけではなかった。

今は実家に帰って、ネットの広告バナーを見るばかりである。

あの頃は、駅のホームに林立している多種多様の広告をそんなものだと思っていた。景色がうるさいくらいにたくさんあって、行き過ぎる人々の中で自分だけ立ち止まって読むわけにもいかない。

それでも、何か気にかかった。電車の中吊りや窓外から見える大きなビルの屋上広告やバス停の時間が経つと広告が入れ替わる電子看板。

新卒で働いた会社を退社した後は、そういうものを作りたいと思ったのか、広告代理店に勤務したこともある。結果そこも辞めてしまったが。

東京の書店は若い女性にはよそよそしかった。勤め先の本社が青山にあって、空き時間に当時連載されていた池井戸潤さんの小説を目当てに経済誌を買っていた。店内に女性の姿を見たことはなく、経済誌のコーナーに立つことすら場違いに見られているような気がしていた。

稼ぎのよくないテレビの映像制作会社のスタッフだったので、書店に寄るために電車代を使うのはもったいなかった。

東京にいた時か転職して福岡に引っ越したばかりの頃か、書店だけで出来ているような大きなビルでこの本を買った。

どうしても本が買いたい日だったが、どの本も私に上手く訴えかけて来なかった。むしろ化粧気のない洗いざらしたTシャツを着てリュックを背負った垢抜けない若者をその華やかな本屋が拒んでいるような気さえした。

それでも、私は勇気を出してズンズン進んだ。

おそらく、客が行ける最上階の洋楽のCDや美術写真集などがたくさん売られているコーナーだったと思う。

華やかな表紙が店の雰囲気に馴染んでいた。中を開くと広告のコピーの本ながら、文字しかなかった。本来あるはずの背景デザインの華やかさはなく、申し訳ばかりのようにページが色紙になっているのに何となく惹かれた。

「365日広告コピー」

家に帰ってパラパラとめくってみると、素晴らしい言葉が並んでいた。

短い言葉でインパクトを与えるものもあれば、語りかけてこちらを説得するに足る文章量のものもあった。

良い本を買ったと思った。しかし、この本を朝読んで出勤することが日課にはならなかった。

塾講師とか出勤時間の遅い職ばかり渡り歩いた。

1年に何度か、深夜番組を見てゲラゲラ笑い終えたような日に、ピンクやイエローのページを繰って読むことがあるだけだった。

我が身を顧みれば、それらの美しい言葉を受け止められるだけの人間になっていたことはなかった。

深夜、コンビニ弁当とバラエティ番組のテレビの喧騒と一人暮らしの女の狭い部屋に、虚しさの中で立派な広告文字ばかりがぽかりと浮かぶ。

年を経るほどに、もう20代のうちに、旅に対する憧れはなくした。

帰郷する飛行機の中で、もう東京には来ないかもしれないと思った。実際その通りになった。

子どもの頃からシクシク痛んでいた腹は、30歳を前に紛れもなく病気だという診断をくだされた。それから4年は働いていた。

もはやどこか遠くにいって世界を見たいとか、遠い場所に根を下ろしたいと憧れることはないだろう。

私はぽっきり折れてしまった。いや、自分というものをむしろ見つけたのかもしれない。

もう「365日の広告コピー」の言葉の多くを身近に感じることはない。それによって奮起することも、郷愁に駆られることもない。

私は帰ってきたのだ。

先々月にとうとう、この本を手放した。改めて読んでも良い言葉が並んでいた。

誰か素晴らしい人の心に響いて、あるいは、つまらない若者だった私に似た人がいたら、そういう人の心を慰めてくれればと思う。

日めくりカレンダーのようなものは、私には向かない。

#読書の秋2021

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