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【小説】 さよなら川辺川 ⑧

「あの山に登ってお弁当が食べたいね」

おむすびを握りながらそんな暢気なことを言う山王を鮎美は睨んだが、厨房で同じくおむすびを手にしていた割烹着姿の女性たちは、「山王くんは詩人だねえ。将来楽しみだ」と言って笑い出した。調子に乗った山王は隣の裕二に向かって将来はあの山の向こうへ行って一緒に住もうと誘った。おむすびの形成に四苦八苦していた裕二はきちんと聞いていたのかいないのか、生返事をして隣の母親におむすびの形はこれで良いのかと不安そうに聞いていた。

窓から見える山並みは確かに、いつになく美しかった。これで虹でもかかっていれば、山王の言う通りお弁当を持って遠足にでも出かけたい。数日前の雨が嘘のようであるが、窓からのぞき込んで山すそをみれば、下流の川には依然として汚泥が流れている。旅館『霧の奥』の周辺は比較的杉がすくなく広葉樹が多い方で、空が晴れていれば普段見慣れていてもはっとするほど景観が美しい時がある。それは山の神様が起こすきまぐれのようで、朝焼けや夕焼けの景色を見ながら登下校する鮎美は学校が遠くても時折は得した気分になった。

とはいえ、どんなに晴れていても地上は今数日前の水害で大変なことになっていた。まだ集落が孤立して救助活動が続いているところもある。市内の旅館も壊滅状態であるらしく、この近隣の住民で集まって今日はおむすびをたくさん作って被害のひどかったところに差し入れすることになっていた。学校はもちろん休みで、市内への道はまだ水が溜まっていたり、橋が壊れていたりで寸断されているが、できることをしなければいけない。

中には人里が川に浸かったようなテレビの映像に10年前の東日本大震災の津波の映像のようだったという人もいたが、当時まだ物心ついたばかりだった鮎美には東北の津波の映像を見た記憶はない。ただ、言われてすぐにスマホで調べてみたら、津波の動画はすぐに見つかった。建物を飲み込む力の大きさに何だか怖くなって、鮎美はすぐに見るのをやめてしまった。

市内までは行かなかったが、鮎美の住む集落の隣にも避難所が設置されていたのでおにぎりはそこに差し入れされた。数年前に作られたばかりの真新しい公民館だ。段ボールがブルーシートで仕切られた場所に何組かの家族が避難していて、その一組には、林家の親戚もいた。父方か母方のおじいちゃんかおばあちゃんかの妹だか姉だかの人のところで、とにかく法事の時に顔を合わせる母の道子にとってのおばさんの家族だ。

「あらあ、鮎美ちゃんえらかねえ。おにぎりを持ってきてくれたの。あちがとう」

いつも法事で手伝いをしているときみたいな挨拶をされると、まるでいつも通りの行事であったみたいに感じるが、周囲のブルーシートやそこかしこにあるアクリル板などが平穏にはないものものしさを醸し出していた。避難所では何か手伝いでもするのかと鮎美は思っていたが、特にすることもなく、おばちゃんの小学生の孫の学校の宿題を手伝っているうちに道子たちの話も終わった。

帰りの道は雨で荒れてごつごつしていて、車の振動が気持ち悪かった。車窓から川沿いに目を向ければ、壊れた橋げたのあたりは流木がひっかかったところで茶色い川の水が飛沫をあげていて無残な有様だった。また、一雨きたらひとたまりもない。

その日は、何だか何もしていないのに一日が終わるのが早く、道子の運転で家に帰りつく時には、すっかり日が落ちかかっていた。

「あゆさん!」

家に入ろうとしたら、大樹が隣の庭から外に出て手を振っていた。鮎美は抱っこしていた早矢母に返すと、大樹の元に近づいた。なんだかんだで話すのは数日ぶりである。お隣さんになってから毎日のように顔を合わせていたので、たった数日でも鮎美にはなんだか久しぶりに大樹と会うように感じられた。大樹に名前を呼ばれたのも実は初めてで、中学生に上がってから周囲の友達からさん付けされていることが多いものの大樹から言われると足の裏がむず痒いような不思議な感じがした。

「だいちゃん、どこかで作業してきたの?」

近づいてみると、大樹はジャージ姿で大部分が泥で汚れていた。

「ちょっと手伝いにね。あゆさん、明日はまだ学校休みだよね」

「そうだね。まだ、いつから始まるかわからないかも」

鮎美は地面を見ながら答えた。中学校に上がって、何だか学校は休みばかりだ。小学校6年生の頃の方が忙しかった気さえする。コロナの次は水害。偶然の産物だから仕方がないが、中学校なんてこんなものだと慣れてしまうのも怖い気がした。学校がない日をどうやって過ごせばいいのか母の道子に文句を言われないようにするのを考えるのは面倒くさいが、かといって、休み明けの学校もそんなにうれしくなくてそれはそれで面倒臭いからややこしい。

「そっか、しばらく休みだとは思うんだけど、いつもみたいにノート頼んでおいていいかな。もし、すぐに始まったらしばらく学校にいけないかもしれないんだ。まだわからないけど」

大樹はいつものさらさらとした流れるような話し方ではなく、何か言葉を選ぶようにしながらゆっくりと話し、少し言葉をきった。

「おばあちゃんが死んだんだ。今度の大雨で。市内の方に住んでたんだけど」

大樹の言葉に、鮎美はなんと言っていいかわからず、うつむいたまま黙り込んだ。こういうお悔やみの時にはどんな言葉をいうべきなのかぐるぐる頭の中で考えたが、思いつかなかった。大樹は泣いてはいなかったが、悲しむというよりどこか呆然としているようでもあった。沈黙は長くは続かず、大樹の方がまた口を開いた。

「あゆさん、死ぬってどういうことだと思う?」

「-ずっと眠っていることかな」

答えなくてよかったのかもしれない。だけど、すっとそんな言葉が鮎美の口をついてしまった。鮎美は自分の科白を後悔した。大樹は少し鮎美から視線を外すと家の門扉に静かによりかかったまま、感情の読めない顔をして「俺もそう思う」と短く答えた。そして、そのうちまた勉強会でもしようと約束すると二人はそれぞれの家に入っていった。

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