【連載小説】日本の花嫁Ⅰやがて社長⑥謎のキャリーケース

地域生活安全課に所属する里田陽太郎は昇進試験の受験の必要性を考えていた。なぜかといえば、最近全財産を無くしたからだ。地元で詐欺にあっては、安穏ともしていられない。

頭の中は金と勉強と騙された女のことばかり駆け巡り、捜索願の届を受け付けるにも身が入らなかった。先日、捜索願が出された彼女は里田の金を持って逃げた。事件に巻き込まれた可能性だってあると周囲には言われているが、里田にはそう思えない。友人の黒田も十中八九詐欺だと言っていた。その黒田も同じ赤肘史奈という女に金をとられた。田舎の有望株の男二人手玉にとって女は消えた。

成人女性の失踪に警察がなぜ真剣に取り合わないのか、里田は身を持ってその理由を痛感した。

「いなくなった娘さんの年齢や個人情報をできるだけ書いてください。娘さんがどこに行ったのか心あたりはないんですね」

「はい」

30代の娘がたった1日家を空けただけという話だった。届を出す母親は口がかなわないらしく、か行やさ行が発音できていなくて、口頭で話を聞くのは骨が折れた。その上、その母親は心ここにあらずという顔をしていた。その原因が、里田が女に金を持ち逃げされた話を事前に聞き知ったからだとは彼は思いもしなかった。黒田と二人こそこそというには堂々とトイレの前で話し込んでいたのが聞こえたのだ。

「娘さんが付き合っていた男性とかに心当たりはないんですか」

「いえ、娘は誰とも付き合っていなかったと思います。真剣に付き合っていて親に言わないでいられるような娘ではないので」

由美は真面目に見えて結婚詐欺を働くような女とは違うのだ、という江子の気持ちが伝わったのかどうか、いかにも人のいい警察官の仮面をかぶっていた里田は、猫の仮面が外れて額に皺を作った。

ー親が思っているのとぜんぜん違っている娘もいる。いい加減に男と付き合っていた可能性もあるじゃないか。逆上させて恐ろしくなって逃げ出したのかもしれない。

「成人女性がいなくなるのは、よくあることですからね。徒歩で出かけたならまだしも、車ならなんとも言えないですね。急に旅行に出かけたかもしれませんし」

里田はどこかで聞きかじったようなことを言って、届を書き終えた女を帰らせようとした。届を見ると、まだ60代というのに、痩せこけて体はずいぶんと歪んでいた。

普段なら、哀れな人間にはことさら親切にするくらいの情けは里田も持っていた。しかし、その日はどうにも頭痛がひどかった。

「いえ、娘が連絡も取れずに帰って来ないなんてありえないんです。一昨日いなくなって、昨日今日と電話でもメールでも連絡がつかないんですから」

「そうですか。近隣にも声をかけて見回りを強化してみます。県警の方にも連絡しましょう」

「でも、今は豪雨のあと片付けで忙しいでしょう」

江子は不安で唇を歪ませた。5日前の豪雨の被害は近隣と比べればこの町では少なかった。しかし、近隣の市町村では死人も出ている。2日前にいなくなった成人女性の捜索にかける人出はないと思われた。川に流された懸念があるといなら、市町村総出の大捜索になろうが、そういうわけではないのだ。

里田もいい加減なことを言った自覚はあったが、どうしても目の前の女が史奈の両親の姿に重なって見えた。史奈は外面がいいというには、付き合いが良い方ではなかったが、こと、両親に対してはとてもいい子を演じていたようだ。二人はいなくなった娘を心配するばかりで、娘が結婚詐欺を働いたなどとは夢にも思っていないようだった。

目の前の身体の弱そうな高齢者に八つ当たりするわけにはいかないが、それにしても頭が重いー。

風邪をひいたのか。いや、頭痛がひどいのは精神的な苦痛のせいかもしれなかった。里田はよせと言ったのに、が被害届を出すと言って、今奥の部屋で里田の直属の上司である警部補と話をしているのだ。陽太郎のことは話さないと言ったが、分かったものではない。そもそも、外聞を気にしなければならないのは、黒田の方だ。里田の両親は会社員で、子どもの頃から頑固だった息子が出世を嫌がり地元に帰ってきても「だから、あんたに警察は向かないと言ったのよ」と諦めのため息をついた程度で、警察を辞めたいと言っても、うちあいはしなかった。息子が初心うぶで奥手なことも重々分かっているから、付き合っている女性にフラれたかもしれないと黒田から史奈の裏の顔を聞いたその日に母にそれとなく電話しても、「なんとなく彼女も乗り気じゃなさそうだったから、仕方ないね」と息子よりずっと達観した姿勢を見せた。まさか詐欺被害に遭ったとは思わないだろうが、史奈がそれほどいい性格をしていないと見通していたのかもしれない。
しかし、黒田の親は里田の家のように放任主義ではない。父は中学の校長で、祖父は町長だ。あれ以来日課になったランニングの最中に、明日被害届を出すと言った黒田が顔を腫らして警察署に現れた時には里田は心底驚いた。「女に騙されて1千万円とられたから、被害届を出してくると言ったらぶん殴られた」黒田はそう言ってカラカラと笑ったが、殴ったのは父だけでなく祖父もというから驚きだ。
右目の周りに青タンができていて、左の頬が晴れていた。おそらく体中に痣ができているのだろう。足取りはおぼつかなかった。今日は土曜だが、明後日出勤したら、生徒たちから質問攻めにあうに違いない。父も祖父も外聞など考えられないくらいに頭に血が上ったのか。
酒席で、黒田が生徒や保護者から大変にモテるというのは聞いていた。顔がよく社交性が高いのだから、当たり前だ。高校の時からよくモテていた。それだけに、付き合う女が黒田とかぶったのが、里田は不思議でならなかった。「同じ女に騙された同盟だな」話を聞いた時はなんだかおかしくて、そう言ったけれど、なくした金の多さに気づいて預金通帳を持つ手が震えてから、重苦しい気持ちがぬぐえない。
それでなくても黒田は趣味の合う友人だ。黒田と再会して、地元に帰ってきてよかったとしみじみ感じたほどだ。ーその黒田に恥をかかせていいのか。警察などいつでも辞めていいと思っている自分が被害届を出すべきだった。何より、史奈は同じ警察署で働く同僚だったのだ。

「あの、刑事さん、娘のこと探してもらえるでしょうか」

あらぬことを考えて黙りこんでしまった里田に江子は声をかけた。

「刑事と呼ばないでください。お巡りさんで結構です。受付ましたから、連絡をお待ちください。ご心配なら、ご自分でも心当たりを探してみることですね」

いつものフレーズを言うはずが自分でも驚くほど冷たく言って、女の顔が曇るのを見て里田は臍を嚙んだ。まさか、「間が悪いときに来てしまった。ほかの刑事さん出てきてくれないかしら」と江子が里田の心中をおおよそ把握しているなど、想像もできない。娘のことだけでなく、里田が信用できないから立ち去れないのだ。

巡査ではなく、階級は警部補。正しくお巡りさんなんかではないのだが、里田は子どもの頃見たアニメの影響で交番勤務のお巡りさんのような親切な存在でいたかった。娘を心配している老婦人を怒鳴りつける存在など自分がなるとは思っていなかったものだ。

暗澹たる気持ちで向かい合う二人は身動きが取れなくなっていた。特に里田の方はややもすると、すぐに奥にいる黒田のことに思考が飛ぶのだ。そのせいで気づくのが遅れた。
バシッと肩を叩かれて、普通でない痛みが走った。顔を上げようとすると大きななたの黒い刃が自分ののど元につきつけられた。

「動かないでください。わたしの話を聞いてくれたら殺しません」

黒づくめで片足を机に乗り上げて里田を見下ろしてきた人物は小柄で声からしても、女であることがわかった。肩が切れていないのは、鉈の柄で殴られたからだろう。剣道の心得があるのかもしれない。それでも、里田は心得以上だ。すぐに女を制圧しようと目を走らせると、鉈を首に突き付けていつ右手のほかに、娘の捜索願を出しにきた目の前の女に左手で拳銃のようなものを突き付けているのがわかった。
銃口を向けられている江子は、突然のことに怯える暇もなく驚いて身を堅くしていた。
切迫した状況ほど、訓練が生かされるものはない。里田の目はぎらりと光った。机の下に左手をのばすと、女の視線が動いた。その隙に、近くにあったプラスチック製の書類ケースを右手で取り、女が拳銃を持っている。左手の手首めがけて打ち下ろした。

女は低く呻いたが、すぐに体勢を立て直して、両手で短めの鉈の柄を握った。その姿勢はすっと一本筋が通っている。思った通り、剣道の心得があるようだ。里田は女が机から脚を下ろした隙に、江子が座っているデスクチェアの脚を思いっきり蹴りつけた。回転椅子でもあるそれは見事にくるくる回って、通路を走り、壁に強くぶつかって虚弱な江子は床に倒れ伏した。
それに一瞬の安堵を見せた隙に女が思い切り鉈を振り上げた、里田は机に身を隠そうとしたが、机に飛び乗って反対側に来ていたため、容易ではなかった。身体を捻ってかわそうとしたが、到底間に合わないと覚悟した。しかし、思っていた衝撃は来なかった。

「おまえ、拳銃と警棒はなんのためにあるんだよ!」

怒鳴りつけられて目を開けると、机に仁王立ちになった黒田が見下ろしていた。

「ーお前の女に騙されたショックで、気持ちがふさいでいて頭が重くて思いつかなかった」

「お互いの女だろ。全国一位の剣道の腕前の人間が、警棒の存在を忘れるなんて正気か?スマホがバッキバキだわ」

慣れない捕り物で興奮しているのか、起き上がる里田をしり目に自分のスマホを見つめてくうっと獣のように唸った。どうやらスマホで女の顔を殴ったらしい。殴られた女の方に目を向けると、めまいを起こしているのか鼻血を流しながら、古びた銀色のどこにでもあるような旅行用のキャリーケースに必死にしがみついていた。

その女を取り押さえて、里田は手錠をかけた。実は手錠をかける行為は初めてだったから、内心では緊張で震えた。
女は何か言いたいことがあるのか、ふうふうと息をついているが、めまいと口に入る鼻血でままならないようだ。
その女を起こしながら、里田はふらりと後ろによろめいた。その背中を黒田が支えた。

「おまえ、気持ちの問題じゃなくて、風邪をひいているんじゃないのか。顔が赤いぞ」

「いや、不覚をとっただけさ。それより俺が突き飛ばした人をみてやってくれないか」

「それなら、もう他の人が助け起こしているよ。さすが警察署は素早いな。救急車も呼んだみたいだ」

確かにここは警察署だ。里田が正気を取り戻して辺りを見渡すと、騒然とはしていたものの、誰もがきびきびと事の収拾に動いているようだった。

「黒田くん。黒田くんでしょ?」

里田に腕を掴まれた女がぐいぐいと服の袖で鼻血を拭って、声を発した。

「え?まさか、川辺さん?」

黒田はぼう然として声を発した。無理もない。警察署で暴挙に出た女が知り合いだったのだから。しかし、女は黒田の驚きなど意に介さず、勝手に話し始めた。

「黒田くんも警察官になってたんだ。そっか、こんな田舎じゃどうしようもないと思っていたけど、黒田くんが警察官でこっちにいると知ってたら、もっと早くに相談できたのに」

話がつかめないが、女は悔しそうに唇をかんだ。そして、黒田が警察官ではないと訂正する間もなくまくし立てた。

「里田くんと黒田君がいるなら、希望が持てる。そのキャリーバッグを開けて。開けて。開けてよ。大丈夫なのに、さっさとしてよ。わかった、もう自分で開けるから」

女は手錠で繋がれた手でキャリーバッグのジッパーに手をかけた。止めようとした里田の手を離れるほど、すごい力だった。キャリーには厳重な鍵などかかっていなかったらしく、すんなりカバのように大きな口を開けた。
すると、むっと血の匂いが鼻をついた。女を引き取ろうとしていた、女性警察官が悲鳴を飲み込んで後ずさった。

「殺されたの。殺されたのよ!絶対、許さない。里田くんなら、きっとこの復讐をやり遂げてくれると思って。悪事は許さない人だもん。高校の時は万引き犯を捕まえて表彰されたでしょ。里田くん、黒田くん。絶対悪いやつ捕まえて、正義面した悪い奴よ。人の命が軽い奴らよ。お願い、捕まえて。捕まえてよう」

女は悲鳴のような声を上げて、幼子のように鳴きだした。助けを求めている里田のことを先ほど殺しかけたことなど考えが及んでいないに違いない。泣きわめく間から、ひっくひっくと笑うような声を響かせている。里田の同級生らしき女は正気ではなかった。

ーキャリーケースの中には小柄な男が入っていた。

「これ、死んだばかりじゃないか」

覗き込んだ黒田が冷静な声を発した。子どもの頃から肝の据わった男ではあった。しかし、死体を見て手が震えている里田を支えてくれるほどの豪胆さは予想外だ。
死体の男は、確かにまだ乾いていない新鮮な血を流していた。それがキャリーケースの縁からゆっくりと毒のように流れ落ちている。目はぎょろりと剥いていたが、どこか笑っているように口の端にはっきりとしたえくぼがある。

「ああ。そうみたいだな。それにしても、死体を見てなんともないのか。本当に警察に入るか」

「お前と一緒にか?仲良しすぎるだろ」

黒田は何ともないわけではなかった。しかし、子どもの頃から尊敬している里田が緊張している姿を見て、里田も人の子だったかと明後日な感想を抱いて変に冷静になっていた。そして、黒田は素に戻ると緊張するほどへらりと笑みを浮かべる男だった。

「職業交換してもいい。俺が教師でお前が警察官で」

「それもいいけど、お前は今はまだ警察官だろ。馬鹿言ってないで、早く川辺さんを連れていけよ。話を聞かないといけないだろ。それか、この死体の人をどうにかしろ」

「ああ、そうだな。そうだ。倒れたあの人に謝っておいてください。それと娘さんがいなくなったって聞いたので、救急車から病院まで付き添ってあげてください。もしかしたら、誰も連絡つかないとかあるんで」

里田は黒田に相槌を打って、傍らの警察官の服を着た女に声をかけた。女は一刻も早く死体から離れたかったのか、素早く頷いて、老婦人の方に駆け寄った。無理もない。キャリーバッグの死体はあまりにも新鮮すぎた。身体が自ら入った手品師のように綺麗に折りたたまれているのも異様だった。

「俺も多分、話を聞かれるんだろ?話すことはまあ、この件にはないけど。話が終わったら、声をかけさせてくれ」

「何時になるか分からないぞ」

「それなら、終わったらショートメール送る。お前もそうしてくれ」

「わかった」

顎をしゃくった黒田に促されて、ようやく里田は川辺を奥の部屋に連れて行こうとしたが、そこではたと立ち止まった。肩に担がれてぐったりしている女こそ、病院に連れて行かなければならないのではないか。むしろ、そのための救急車かもしれない。里田は脱力して椅子に腰かけ、手近な椅子を引き寄せて黒田にもすすめた。

里田に突き飛ばされた江子は一瞬のめまいに襲われたものの、すぐに正気になって、少し離れたところから、じっと二人のやり取りを見ていた。危ないところだったが、流石に若い二人の気持ちの切り替えは早いようだ。

江子はその様子を見ているうちに、里田に捕まえられている女が娘の由美に重なって見えた。由美は茶髪など派手な髪色はしていないし、警察署に襲撃を企てるほど大胆ではない。人も殺さないし、もっと冷静だ。或いは黙っていなくなるなら、直前に目の前の襲撃犯ほどでなくとも激情に駆られた行動をするはずだ。何より、数か月前に拾ってような育てている猫をおいていくような真似はしない。どこまでも、生真面目な娘だった。

江子は自分が頭から血を流していることに気づいていなかった。ふわふわした頭で、周囲からの質問もおざなりに娘の言葉ばかり思い出していた。

由美は学校は改革が必要だと常々言っていた。以前勤めた塾は中学生までは100%詰め込み教育だけれども、高校生以降の授業は理想に近いと言っていた。特に大学が人気で、専門職の学科しかない。授業の8割はオンラインで、月に1回その成果を大学で確認してもらいに行き、基準に達していなければ、希望者は補修を受け、もう一度だけ確認テストを受けられる。その月では間に合わないと自分で判断すれば、翌月に確認テストが繰り越しになるが、来月分の課題が2つになってしまう。それが積み重なると留年だ。最大8年まで通えるが、早期卒業も可能で、最も早い人は一年で卒業することもできる。いわゆる専門学校のようなところである。
その大学に子供をいかせたいが為に、小学校から大学関連の塾に生かせる親もいるほどだった。
しかし、その小学校中学校の塾のカリキュラムについては由美はあまり語りたがらなかった。とにかくほぼ週6で塾に通うと言うのだから常軌を逸している。

「仕方がないですね。後悔しなさい。あなたの人生がこれで死ぬんですよ」

宿題をやって来ない生徒に、教室長はそんな言葉を繰り返し、投げかけていたという。

生きていてこそ、何かを為すことができる。宿題をやらずに死にかけるなら、死にかけている人間が、本当に死んだところで何も変わらない。生きている人間は、死にぞこなわない。生きるというのはもっと力強いものなのだ。

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