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『あの日、あの味 ~食の記憶でたどる昭和史~』を読んで  おゆみバージョンを書いてみました

私がまだ幼かった頃、両親は中華料理屋を開いていました。1階が店舗で2階が住居の、当時はごくあたりまえの「なんでも置いてあるラーメン屋さん」でした。中華料理はもちろん、オムライスにカツ丼、親子丼、依頼があればちょっとしたパーティーのために、料理を大皿にきれいに盛り付けて配達していました。

小さかった私は、2階の住居とお店を行ったり来たりして、メンマの缶の絵を眺めたり、朝届けられる豚の足の毛を触ってみたり、重くて大きな白菜を持ってみたりして、遊ぶともなく、両親の姿を見ていました。

閉店間近にお客さんが訪れ、お客さまに誘われ厨房の父がビールを飲み始めてしまい、なかなかお店が閉店出来ずにいるところを、「お客さんまだ帰らないの?」と子供ながらにお客さんに聞いてしまったり、のれんを先に下げなかったので、厨房担当の父がもう引けているのに、閉店ぎりぎりに入ってきたお客さんに、片付けをしていた母が、チャーハンを提供していたりしているのを見ながら育ちました。

いつからか、ラーメンは父親の作るものが1番美味しいと自負していました。しかしながら中華料理屋さんをしていたからと言って、中華料理は商品であったため、子供の私の口にはいることは、ほとんどありませんでした。

成人してから、「当時、お店の瓶コーラ1本、自分たちで飲んでしまったら、粗利はなかったくらい」と、本当かウソかはわからないけれども、そんな事を言っていたのを聞いたことがあります。

お昼どきは食べ物やさんなので、やはり両親は忙しく働いていました。子供ながらに忙しいのは感じていたのだと思います、お腹がすいたとは言えなかったのかどうかは全く覚えてないのですが、親の目を盗みみて、お客さんの食べ終わったどんぶりに残っていたラーメンスープをこっそり飲んだことが2度ほどあります。

しっかりしたコクのある深みのある味わいがしました。子供すぎたので、一人前のラーメンを全て完食することも、提供されることもなかったけれども、1番心に残るのは父が作るラーメンなのです。

そんなわけで、両親が忙しい為、近くに住んでいた祖父母と食事は共にしていたことが多く、戦前・戦後を生き抜いてきた彼らとともにする食事は、ごはん・大根の味噌汁・魚の干物・漬物でした。中でも記憶に残るのがごはんに味噌汁をかけて食べる、汁ご飯。味噌汁も赤みそだったので、濃い味噌味が白ごはんにとても合っていました。

お店の唯一の定休日の月曜日、保育園をお休みして母と二人でいる時間を持てた機会があった時、厨房でフルーツを挟んだクレープを作ってくれたことがあります。朝の仕込みと夜の片付けと出前と一日中働き尽くめの母は、疲れ果てて階段で寝てしまうくらいだったので、母と居られるとても楽しい時間でした。中華料理店と、祖父母の家の食生活は、甘いものとは無縁だったので、クレープは、食べたこともない見た目と味でした。煮リンゴを挟んだものと、桃の缶詰を挟んだものの2種類で、あまり甘い味になれていなかったせいもあって、『クレープの皮だけ食べる』と幼い私は言ったのを覚えています。何より、忙しい母が時間を縫って、作ってくれた事が本当に嬉しかったし、楽しい時間でした。

飽食の時代に生まれたけれども、やはり1番覚えているのは、どんな美味しい食事よりも周りの大切な人が作ってくれたご飯だったりします。


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