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複言語環境で日本語を習得する~トランスランゲージング

 この間、「yyjゆるくてやさしい日本語のなかまたち」でお世話になった奥村三菜子先生の『日本語教育と複言語教育の接続―日本語教育にもたらす課題とインパクト』『複言語教育の探求と実践』くろしお出版より)を読みました。その中で、奥村先生は「複言語」のことを「わたし語」と表現して説明してくださっていたのですが、それが、ものすごくしっくりくる表現だったので、最近よくそのことを考えます。

世の中の全ての人々は一人一人の「わたし語」を持っているのである。たとえ親子であっても全く同じ環境で全く同じ体験をするものはいないため、「わたし語」は唯一無二のもので、世界に一つしかないことばである。ことばというのは、日々の様々な体験を通して独自に吸収され、その中でアイデンティティも徐々に育まれていく。こうした、個人のアイデンティティを支える「わたし語」に着目するのが複言語主義である。

『日本語教育と複言語教育の接続―日本語教育にもたらす課題とインパクト』奥村三菜子著


私には今、言葉と知識が足りないので、私が感じていることをどのように言語化したらいいのかとても難しいのですが、最近、耳にしました「トランスランゲージング」という言葉を、おそらく、私が言いたいことはそれのことだろうと当てずっぽうで使わせて頂くこととしまして、以下に私の言葉で表現を試みてみたいと思います。

キーワード:スキーマ、わたし語、複言語、トランスランゲージング

私の複言語環境の中での言語習得


 私は、2003年に中国語を勉強するために1年半ほど、中国に留学に行っておりました。その時、ドイツ人の女の子とルームシェアしていたのですが、当時、私の彼氏だった韓国人の夫を合わせた私たち3人は、四六時中、一緒にいて、生活に関わる言葉のやりとりを大量にしました。英語と中国語が私たちの共通言語でした。

 当時の動画を比較的、最近、見たのですが、中国留学後期の私たち3人の対話は、基本的には中国語で行われており、時々、英語に代わり、そして、足りない語彙は、まず、英語で補うことを試みますが、英語でも分からなかったら、各自の母語で「これは、ドイツ語では○○と呼ぶんだけど」という文脈で、ドイツ語、日本語、韓国語で補強されながら、継ぎ接ぎの言語で会話していた模様です。おそらく、こういう言語を「ピジン語」というのでしょう。私と夫は、今でも、おそらく私たち2人にしか通じないであろう「ピジン語」を使っています。先週、夫の韓国語は100%理解できるのに、なぜ他の人の韓国語は理解できないことが多いのか彼の発話を意識的に聞いていますと、結婚して20年近く経つのに、いまだに!!彼はいくつかの簡単な語彙を「中国語(もどき)」で言っているのにびっくりしました。夫は完全に無意識で行っており、私もそれを無意識で理解していたのです。私は今では、韓国で基本的な生活を営み、意思疎通には困らないほどには韓国語を使いこなすことができますが、それはこのように複数の言語の助けを借りて、人との関係性の中で習得していったものです。

対話をリードしているのは、「言語コード」なのか?~私の実例からの考察


 私たちは、会話するとき「文脈」、そして、「スキーマ=ことばの裏側にある、膨大な共通の世界」に頼って会話をしています。

 私は日本語教師ですので、多くの場合、「日本語という言語コード」を教えようと授業実践をしているわけなのですが、対話をリードしているのは、「言語コード」なのかということを考えてみることは大事なことだと思っています。そうでなければ、この「言語コード」だけに注目して、言語事項だけを取り扱い、肝心なコミュニケーションとしての言語活動がなおざりになってしまう危険性があると思っているからです。

 私はこの間、勤務先の日本語学校で放課後、2人の学生と話しをしていました。歩いていたら、文法について突然、質問されたのです。彼らはアフリカとスカンジナビアからの学生でしたが、レベル的にはB1(初中級)とされているクラスにいるのですが、会話のクラスでは、あまり成績優秀な方ではなく、日本語だけで意思疎通を試みるのは難しくありました。とくに、アフリカの学生は、アウトプットにものすごく時間がかかるのですが、彼は頑張って、なるべく日本語でアウトプットし、私に文法の質問をしようとしていました。スカンジナビアの学生は、優しく、コミカルな性格で、場の雰囲気を盛り上げ、彼をフォローしてあげようと、英語と日本語を駆使して、仲介の役をしていました。

 私は日頃からのおそらく習慣で、意思疎通を優先して、FonMで反応を示し、3人の間で意思疎通を最も可能にする言語を基軸言語に設定し(この場合は、英語でした)日本語の語彙や表現で継ぎ接ぎをして話すということをしました。私の英語は高校生で習った範囲内で運用しているだけですので、語彙の数は本当に少ないです。足りない語彙は、彼らとの共通言語である日本語で補い、今、この話を表現するには、日本語がふさわしいと判断したときは、日本語で言いました。私たち3人はただ文法についての話をしていただけだったのですが、何かがおかしくて、ガハガハ笑いながら話していました。

3人の間の会話を支えているのは、文脈、スキーマです。そして、長く話すうちに相手の会話ルールをお互いが習得していき、「ああ、あなたが言いたかったのは○○ね!」と「共通コード」を見つけ出すのです。それは、もはや何語であっても、私たち3人だけで共有可能な「コード」なのです。この3人で作り上げた「コード」の力を借りて、会話が進みます。彼らは日本語を学びたいという気持ちがあるので、私が表層に出した「日本語コード」を積極的に吸収していきます。

 会話の最後に、2人に私の英語がすごくうまいと褒められましたが、私たちの間で対話を可能にしたのは、私の英語力の力ではなく、お互いの間に存在している「スキーマ」で、2人は私が日本語で話したときも、文脈から意味を推測し、それが何語であったのか意識もしないまま、言葉を理解したのです。また、お互いが対話を続けようと仲介し合ったことも大きく寄与しているでしょう。

参照:「トランスランゲ―ジングとは、X語やY語といった言語の範疇にとらわれずに、過去の経験を通じて蓄積された言語レパートリーを言語資源として用い、相互作用の中で意味づけを行い、言語資源を更新していくという言語実践である」

トランスランゲージングの遂行性 猿橋順子・坂本光代 P.27

 日本語学習を複言語環境で行うことを通じて、ありのままの多様な「わたし語」が肯定され、共に学習する教師を含むクラスの仲間たちとの豊かなコミュニケーションが可能となります。そして、そこから親密さが育まれるのも、良い学習環境を生み出す一つの要因になると感じます。また、「わたし語」というのは、教師固有の日本語方言も含まれている概念だということも、複言語主義と日本語教育を考えていく上で大事な点なのでしょう。

 まだ、知識が足りず、モヤモヤしている段階なので、うまく表現することができないのですが、今後、私は、複言語主義に基づく言語観、そして、「トランスランゲージング」というキーワードで表現できるなにか、これらの原則にのっとって、日本語教育実践、ひいては、複言語環境にある子どもたちの学習サポートを考えていきたいと漠然と考えています。


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