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祈り

教会の仲良しの姉妹が、昨年末に大きな悲しみに見舞われました。それも、クリスマスイブの朝に。

私は、掛けてあげる言葉が何も浮かばなくて、ただ「祈ってます」とだけチャットで送りました。我ながら、こんな時に何も言えないなんて、なんだかなぁ~とがっかりしつつ。

クリスマスイブは、教会はキャンドルサービスの日で、本当なら一緒に参加して、一緒にご奉仕する予定でしたが、彼女はそれどころじゃなかったので、それも叶わず。

お祈りする度に、「彼女を支えてください、慰めがありますように」とイエス様に祈っていましたが、相変わらず、彼女に対して何も発することができなくて、なんだか友達甲斐がないような情けない気持になっていました。

そして今日の日曜礼拝で、約1か月ぶりにようやく再会。今日は、顔を見たら絶対にハグしようと決めていました。東京はコロナ感染が増えてきている状況なので、教会でもハグは暗黙の裡にご法度になっていますが、今日についてはハグしかない!と感じていたので。

それで、ようやく顔を見ることができた時に、私がしたことと言えば、相変わらず言葉が出なくて、ただ駆け寄ってハグすることだけ。でも、そうしたら彼女が「祈られているのがわかった」と言ってくれました。

そうなんだ~、イエス様は、大事な友達に何も言えなかった私のために、私の、そして教会の兄弟姉妹たちの山のような祈りを、本人に届けてくれていました、感じるように。

出てこない言葉を無理に絞って、上滑りなメッセージを送るより、ただ祈っているほうが、そこにイエス様がいて働いてくださるのだから、断然良かったということでした。

ちなみに、祈られている祈りは感じることができます。私も、一昨年夏に心臓のカテーテル治療を受けた際、前日に病室のベッドの上で、祈りが四方八方から押し寄せて来て包み込まれ、人生でこんなに平安を感じたことはない、という平安に包まれました。白いカーテンに囲まれた白いベッドの上が、この世にいながら天国のような静けさでした、実際には四人部屋で周りに他の患者さんがいたのに。その時は、だからその治療が成功すると確信したということではなくて、成功とか失敗とか、万が一のこともあり得るとか(なんとかいっても心臓の治療なので)、そういう次元を超えた、ただイエス様の愛の中にいる平安を感じました。

自分のことも他人のことも、祈っていてもすぐに結果がわからないことのほうが多いのですが、それでも、どんな悲しみにある人でも祈りを通してイエス様が支え慰め励ましてくださるのだから、これからもひたすら祈るのみ、です。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

冒頭の写真はUnsplashのOlivia Snowさんの写真です。ありがとうございます!

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