それは、去年の3月に始まった ①青天の霹靂編

タウン情報誌の取材記者になってからは丸2年。流れ流れて、半年前から大阪のライターコミュニティにも所属している。

たまに個人でも取材の仕事をしているから、仕事は何をしているのかと聞かれて、カッコよく言いたい時は「まあ…言うたら、フリーライターかなあ...」と斜め上を見ながらニヤけて名乗ったりしている、ライターのハシクレです。

そもそも2年前、どうして突然やったこともない取材の仕事を始めたのか。

それは明確に覚えているけど、ある日買い物から帰るとダイニングテーブルの上に、今は“弊紙”と呼ぶタウン情報紙が置いてあり、そこに「取材レポーター募集!」の文字を見つけて、やってみたいとワクワクしたから。

それまで文章を書いたこともなかったけど(ブログもSNSすら何も)、知らない所へ行って取材するっていうコトに好奇心が溢れて、応募しようと即決していた。

文章が書けるのか、それを考えもしなかったのはきっと「レポーター」というネーミングに「書く」という行為が感じられなかったからだと思う。実際は取材して、写真を撮って(撮影も一人でやる)、原稿を書くから、まんま取材記者なんだけど。

その応募要項は、最近思ったことをエッセイで400字書いて、履歴書と一緒に送付するというものだった。

実はその時期、出かけていく所がなく、こもりがちな実家の父が通えるようなコミュニティがあればいいのに、という想いから、定年退職後の男性の居場所を作ることに意識が向いていた。「定年後」という本も読んだりしていたので、その想いをツラツラと書くと、20分ほどで800字近く書くことができた。

その後編集室に呼ばれ、面接して採用が決まった。でも研修も何も無いし、取材に際してのいくつか注意事項と、見本となる原稿数点をメールでもらっただけで、数週間後に私の初取材が決まった。

今思えば、ググったりして取材のやり方を調べれば良かったのに、それもせずに、全くの自己流だった。たしか神大医学部が主催のイベント取材で、会場に着くまでは結構緊張してたのを覚えている。

今も正解はわからないけれど、特にクレームも無く2年やってるから、このやり方で大丈夫なのかな、と思うことにしている。

タウン誌だけで仕事をしてるうちは、レポーターっていう名称だし、ライターだとは思っていなかった。取材原稿は事実を伝えるだけで、自分の主観も書くことが出来ないから。

でもそのことが、のちに天狼院書店のライティングゼミで、感情爆発の文章を書くモトになった。

あれ?全然タイトルの「去年3月」に話が行かないな(笑)

見出しの「去年の3月から始まった」まで辿り着かない!また次に書こうかな。。見出しと内容が違う詐欺になっちゃうから、少しだけ。

去年の3月までは取材の仕事の他に、月に8日程度、神戸のハーバーランドにある「松方ホール」というコンサートホールでレセプショニストの仕事もしていた。

取材とレセの仕事量の塩梅もちょうど良くて、ホールの仕事も楽しく気に入っていた。

特に、場内の担当になるとホールの中に入れるので、サンドウィッチマンのライブや、佐渡裕さんの「火の鳥」を聴いた時は感動して、公演後にお客様と感動を分かち合っちゃったり(笑)本当は舞台に見入っちゃダメなんだけど!

一緒に働くメンバーも尊敬できて、ホントに楽しい職場だったのに、3月に入ってから突然、

「今月いっぱいで松方ホールから全員撤退します」と告げられる。

「え?!今月?」

系列である「兵庫県立芸術文化センター」か「神戸文化ホール」に異動という道を提案されたけど、3月で終わりと聞いた瞬間に「あー終わったんだ」と思ったので、悩むことなく退職を決めた。

この時も「これだけ強制的に仕事が終わるってことは、何か始まるんだろうな〜」と漠然と思っていた。

そして、やっぱりそんな「強制撤退」がキッカケとなり、もうワンクッションを経た後、ライターの道へと進むことになる。

……ここから書くつもりだったのに、取材記者になったところから書いてしまったハハハ…。


☆☆☆続きはまた次回にしたいと思います。。☆☆☆






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