見出し画像

鳥取仁風閣  

  鳥取市は城下町、江戸時代には池田光政に代表される池田家が治めた土地。
居城の鳥取城は久松山の自然地形を利用して築かれた山城で近世的な城郭を成していたが、明治時代になって取り壊され、今は基礎や石垣などが残り、その雄大さの名残を留めている。この城跡の一画にある仁風閣はフレンチ型のルネサンス様式の白い色の建物で、観光名所。1907年に建てられ100年以上たつ。建てた人は池田家14代当主池田仲博、当時の皇太子(後の大正天皇)が鳥取に来られるときの宿舎として8か月で完成させたとのこと。建設当時の鳥取市の年間予算が50,000円だったときに建築費は44,000円。この費用をぽんと池田家は出し、建ててしまったのだから、なんというお金持ちだったのでしょう。
 木造建築で二階建て1,046㎡(317坪)。不動産情報風にいえば美築。即入居可とまでいえないが、手入れが行き届いた建物だ。といっても国指定の重要文化財なので、おいそれと居住は出来ない。
 鳥取駅から車で5分、手入れの行き届いた芝生や松に映えた佇まいで観光ガイドブックや絵葉書の写真そのままという美しさ。
 中に入るとひんやりした空気が漂い、おしゃれなリッチな気分になれる。さっそく仁風閣が建てられた経緯や時代などの説明を読みながら見学した。 
 すぐにわかったことは池田仲博が30歳のときに建てたということ。こりゃ大変な浪費家だったのか、若さから生まれる「勢い」だったのだろうかと? びっくり。池田仲博は徳川15代慶喜の息子。乞われて徳川家から池田家の跡とりとして養子に入った経歴を持つ。東京生まれの東京育ち。遠路はるばる鳥取まで皇太子が来られ、宿泊されることになったが、仲博の目にかなうような施設は鳥取市内にはなかったのではないか・・・
しかし?!!
明治の初期、日本は欧米に追いつけ追い越せで、洋風の建物がたくさん作られたが、東京から遠く離れた鳥取にはその様子も伝わっていない、情報格差はすでに明治初期に始まっていたのか・・・
そんな状況で皇太子が来られるとことになり、仲博は美しいルネサンス風の建物を作ってお迎えしようと思い立った?
そして~皇太子の宿泊を理由に、鳥取の人々にこそ近代建築を見せたかったのではないか・・・
 
 4年前に山陰にやってきた私の心の中は内部を歩くに従って勝手な想像が膨らみました。地方は優しさにあふれのどかです。シャープにスピーディにビジネスを展開することなど僅少。都会との格差あり。けれども、それゆえ人々の心は穏やか。これは長所であり短所でも。
ゆうこの山陰便りNO.40

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?