おわりのはじまり -はじまりのはじまり-

19歳、私はある人に恋をした。それはあまりにも若くて、幼くて、儚い恋だった。
私はその恋によって、たくさんのものを手に入れた。例えば哲学とか、人間味とか、失望とか。
そしてたくさんのものを失った。自信とか、大学生活のほとんど大半とか、単位とかだ。

本当に長くて辛い恋だったけど、今の私はその恋があったからこそ形成されている。だからそれは、私にとって全ての「はじまり」の恋だった。


穏やかな春の陽気は、人々の心を否応なしに浮つかせる。心地よい暖かさと、美しい桜と、何より新しい誰かに会えるかもしれないという期待感が、大学構内を支配する高揚感につながっていた。私だって例外ではなかった。春の高揚感を心地よく受け止め、無邪気に幸せな未来を妄想したりしていた。

当時私は会員が2人しかいない弱小研究会に属していて、その日は新勧発表会の最終日だった。教授から頼まれたプリントを束ね終え、発表会が始まるまでの長い時間を本棚を眺めて過ごした。
そこに現れたのが私の恋の相手だった。髪が長く、睫毛も長く、メガネの似合う、私の性壁を具現化したような人だった。こんな研究会の謎の発表会にくるなんてとても奇特な人だな、と思いながら、私はその人とそのお連れ様をもてなした。

名前を、「ヨシムラ」というらしい。

発表会が終わって、私たちは飲み会へと移行した。メンバーは少ない。私、ヨシムラさん、ヨシムラさんのお連れ様、教授、そしてもう1人の研究会の会員だ。どんな話をしていたか忘れたけれど、相当に盛り上がった記憶だけがある。私も早々に帰るはずだったのに、ヨシムラさんの長いまつげを眺めていたら、気づけば相当な時間が経っていた。

「終電ある?」

教授に聞かれて我に帰った。時計を見ると既に0時を少し過ぎたところで、私は帰宅手段をなくしていた。
「終電、ないですね。まぁ、誰か泊まらせてくれる友達探します」

「じゃあウチ来る?」

えっ、という私の声は、聞き取れないほどかすれていたと思う。「お連れさまも一緒だけど」とヨシムラさんは補足した。
少しだけ早くなる鼓動を感じながら、私はか細く「いいんですか」と訪ねた。返事は変わるはずもなかった。

ヨシムラさんの家は狭かった。
ベッドがあって、1人分が通れるくらいのスペースがあって、机があって、それで終わりだった。
確か大きな椅子もあって、お連れさまはそこで寝た。私とヨシムラさんはベッドで寝た。

お酒が入っていたのか、それとも単に疲れていたのか、ヨシムラさんはすぐに眠りについた。
寝顔もとても素敵だった。陶器のように白い肌に、長い髪がかかっていた。呼吸に合わせてゆっくりと動く長いまつげと身体。これ以上見続けると心臓の鼓動でヨシムラさんを起こしてしまいそうだったので、私は慌ててそっぽを向いた。
布団の端を少し掴んで、背後に寝息を感じながら目を閉じていたけれど、気まぐれな睡魔は朝まで来なかった。

翌日。家に帰って日記を書いた。
当時のその日の日記にはこう書いてある。
「春は恋の季節で、私にも恋が訪れるかもしれない」と。
でも私はこの日記が嘘だということを知っている。私はもうすでにヨシムラさんに恋をしていることを99.9%確信していた。ただ0.1%の疑念が振り払えなかったがためにこんな書き方をしたのだ。

日記を閉じて、家の布団の端を掴んで寝ようとした。背後にヨシムラさんの寝息が聞こえそうな気がして眠れなかった。
その日から私は何度も眠れない夜を過ごすことになる。私にとっての「おわりのはじまり」が始まった。