「第38話」サマラとの出会い 〜初めてアメリカ人にピアノを教えた時のこと〜
エピソード4(ニューヨーク・短期大学時代)第38話
いつも破廉恥な事ばかりを書いている著者だが、今日は少し真面目な話をしたいと思う。つい最近、NYCの短期大学在学中に知り合ったサマラという友達から元気にしているかとフェイスブックを通じてメッセージがあった。連絡を取り合わなくなったアメリカの友達から突拍子もなくメッセージが来る事はよくある。特にコロナ渦の今、アメリカの友人からは「ユーキ、今どこにいるんだ?日本か?最近どうだ?からだに気をつけろよ。マスクをしろよ」と連絡が来る事も多い。久しくなった昔の友人に何気ないメッセージを送るアメリカ人の事が僕は好きだ。
話は変わるが、著者はニューヨークの短期大学在学中にアメリカの黒人差別の歴史について多くの事を学んだ。留学する前の自分はアメリカ黒人の歴史について学ぶ機会はほとんどなく、自分で勉強しようとしたわけでもなく、アメリカの人種差別問題については浅い考えしかなかった。
リーディングの授業ではアメリカの公民権運動を題材にしたものを多く読んだし、ESLのクラスではマルコムXの回想録を読んだりした。またENG101(英作文のクラス)ではビリーホリデイの「奇妙な果実」の曲の背景を学んだり、アメリカのメディアと人種問題の関係性についても学んだ。短期大学の英語のクラスでは多くの黒人差別問題について取り上げるリキュラムが組まれていた。これはおそらく大学、市の意向なのだと思う。
アメリカの黒人差別はとても根深く、日本でアメリカの構造的な人種差別問題を正しく理解している人はほとんどいないと思う。私もアメリカの人種差別問題を十分に理解していないし、偉そうに人様に語れる立場にあるわけではないが、少なくとも今回のBLM運動によって、根拠もないデマを垂れ流し、差別的な感情をむき出しにしている自称保守論客や、ネトウヨ・ビジネスYoutuber達よりも、アメリカの黒人歴史については知識はある。ネットに溢れるネトウヨの根拠のないコメントに胸を痛めることは多い。
話はそれてしまったが、私とサマラが出会ったのは、例の音楽棟でピアノを練習していた頃である。ニューヨークに移住してから約1・2ヶ月、死活問題であったピアノの練習場所を確保する事に私は翻弄していたが、ようやく練習場所を見つけ、水を得た魚のようにピアノを練習していた(といっても例の警備員の事等もあり完全に問題が解決された訳ではなかったが。)10月頃だたっと記憶している。冷暖房が完備されていない練習室は、冬は寒かった。大学の建物の中は冷暖房が効いているが、音楽棟の冷暖房は音楽の授業がないと止まるようだった。厚着をして練習をし、カフェテリアや外の移動式コーヒースタンドまで休憩時には熱いコーヒーを飲みに行っていた。
その日も、いつものようにウォームアップがてらにクラシックの作品を弾いていた。ショパンの木枯らしだったと記憶している。曲を弾き終えて、少し考え事をしているとトン・トン・トンとお行儀よく誰かがノックをするのである。
金属製の重厚なドアをギィーと開けると、満面の笑みでそこにサマラが立っていた。すごいすごいと興奮した様子だった。彼女は僕の演奏を廊下で聞いていて、とても感動したのを伝えたかったと言う。
アメリカ人は自分が良いと感じた他人の長所を褒めるのがとても上手だと思う。どうして他人の事なのに、まるで自分の事のようにそこまで幸せそうに喜んでくれるのだろう。アメリカ人の素晴らしいところだと思う。
少し立ち話をしていると、サマラが私にピアノを習いたいと言うではないか。ちなみにピアノは全く触ったことがないと言う・・今後日本のジャズ界を背負って立つ二見大先生に習いたいと言うのにピアノは超初心者。アメリカ人のこの度胸を見習いたい (; ・`д・´)
しかし私は全く悪い気はしなかった。むしろ自分の演奏を気に入り、それを素直に伝えてくれた彼女を好意的に思っていた。私はかなり気を良くしていた。いや、私はむしろ、幸運の女神の前髪を掴んだ気持ちだった。
私は「じゃあ毎週水曜日に、ここで一時間ピアノを教えるね。その代わり英語を教えてね。」という交換条件でピアノを教えることにした。これで毎週水曜日の6時に私の英語を定期的に直してくれるチューターを無料で見つけ私は内申ガッツポーズをしていた。
アメリカに留学して最初の数ヶ月がアメリカ留学で最も辛かった時期かもしれない。なにせ彼女が出来ないどころか、友達が全く出来ないからだ。友だちが出来ないから日常会話が話せない。日常会話が話せいないから、クラスメイトに話しかけるのにも億劫になる。その負のループが無限に続く。私は一生英語が話せないまま、ここで童貞のままワシントンスクエアパーク辺りで夜道にズドンと銃撃に遭い、一生を終えるのではないかと思ったほどだ。(←それは言い過ぎか)
特に私が通っていたのは音大でも無く、地元の頭の悪い不良のガキや、バツイチ子持ちのお母さんが、貧困から抜け出すため、就職を有利にするために通う底辺短期大学だったので、クラスメイトでさえ自分と同じようなバックグラウンドを持つ友達を見つけるのは難しい。
私のように品が良く、育ちの良いシティーボーイ(埼玉県・春日部市育ち)でジャズピアノと阪神タイガースのナイター中継を嗜む教養の塊のような上流階級人間と、底辺大学のドキュンと馬が合うはずがない。
そんなことツベコベ言わず、学校にいるアメリカ人に話しかけろだって?想像してみてほしい。貴方は歌舞伎町でポン引きをしているチンピラと友達になれるだろうか? 私のように、清純無垢で夜遊びをしたこともないような聖人君子(←嘘)と彼らとは同じ日本人でも意思疎通をするのは困難だろう。会話も続かないだろう。
それが故、私には短期大学に入学して数ヶ月の間は絶望しかなかったのである。おかしい!私が描いていたアメリカ留学はこんなハズではなかった。今頃ジェシカとイザベラとマイケルと水辺でバーベキューを楽しんで英語を流暢に話している自分を想像していたのに、実際は、ESLのクラスでゴンザレスとマリアとロペスに私は中学校2年生でマスターしたはずの「I・My・ME・Mine、You・Your・You・Yours」を再度習い、周りのクラスメイトがそれすら復唱するのが危ういのを見て、私は一体何のためにニューヨークに来たのだろうと悲しくなるのである。(´;ω;`)
しかし、遂に私はこの日、こうして自分のアイデンティティーであるピアノを通じて、一人のアメリカ人の友達をゲットしたのである。世界のピアニスト二見が短期大学の不良達に囲まれ、自分がどうしてここにいるのか誰にも理解してもらえず、自分の居場所がなく苦労した数ヶ月。今ここに自分を理解してくれる人がいる。サマラはそんな救世主だった。
余談だが、もし君が海外留学を考えているのであれば、自分が特技とする事を理解する人に囲まれた環境に身をおいたほうが良いだろう。今振り返ると短期大学に行ったのは間違いではなかったし、ここで得た単位を授業料の高い私立の音大にそのまま移項できたので、かなりの節約になったし、一般教養科目を音大で一つも取らなくてすんだのは大きかった。しかし、もし音大にそのまま留学していたら、早くに多くの友人に恵まれ、もっとアメリカ生活をエンジョイできたのではないかと思う節もある。私が音大留学を考えている学生にオススメしたいのは田舎の音楽大学だ。日本人が少ないし、田舎なので地域の絆が強い。学校の友人、特に音大ならアンサンブルのクラスの仲間と一日中生活を共にすることになるだろう。日本の大学サークルのように友達との連帯意識が強いので、孤独になることがない。英語も上達する。
話はそれてしまったが、サマラは当時「貧困大国アメリカ」の著者でも知られる堤未果氏が卒業したニューヨーク市立大学に通う女学生だった。(ちなみに、ここのジャズプログラムに留学する日本人は多い。興味があったら調べてみると良い。事務は悪名高く、知り合いは良く文句を言っていた。入学の手続きで苦労するのは避けて通れないと思う。)
学歴で人を判断するのは良くないが、彼女に出会った瞬間から、その自然なスマイルと、私が曲を弾き終えるまでノックをするのを待つという礼儀正しさから、私の通っていた短期大学の学生ではないと(←ひどい)分かった。ちなみに彼女は当時私の通っていた短期大学に通う彼氏に会いに毎週水曜日会いに来ていた。
冒頭で黒人差別について触れたが、私が一番最初にニューヨークで出来た友達が黒人の女性だった。そして二番目に出来た友人もアサンという黒人の学生だった。辛いアメリカ留学生活で、救いの手を差し伸べてくれた数少ない友人達だった。孤独だった私をいつも気遣ってくれたり、英語はどうだ?今日も練習するか?とカフェテリアで話しかけてくれたのも、マンハッタンのコメディーショーやスケートに連れて行ってくれたのも彼らである。今でも本当に感謝している。次回はサンクスギビングとクリスマスにサマラの実家に行った時の話をしたいと思う。
【続く】
ジャズピアニスト 二見勇気
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