ナショナル・エディション日本語版 「自筆譜清書」「自筆清書譜」はどちらも誤りではない
ある方から「自筆譜清書」は誤りとのお声をいただきました。2022年4月17日にまず「『自筆清書譜」のほうが正しいと思う」。その後 9月3日に「『自筆譜清書』の訳語の解釈が疑わしい」、そして9月8日になると「『自筆譜清書』は明確な誤り」であると強く主張される。オリジナルのポーランド語は autograf-czystopis です。
「自筆譜清書」か「自筆清書譜」か
今回のナショナル・エディション日本語版ではこれよりもはるかに深刻で重要な問題が数多くありますが、この方は春からとくに「自筆譜清書」にこだわっておられます。そこで、なぜ私や他のショパン研究者が「『自筆譜清書』『自筆清書譜』はどちらも誤りではない」と考えているのかを書いてみます。
“Autograf-czystopis / 自筆譜清書” の歴史
この方は今年4月17日に「既存の言葉『自筆清書譜』を使うべきで、新たに『自筆譜清書』という言葉を今作るのは望ましくない」と。しかし「自筆譜清書」という言葉は14年以上、ハイフン入りの「自筆譜ー清書」は23年以上の歴史があります。
私はウィーン原典版で「自筆清書譜」を目にし、ナショナル・エディション日本語版(1999年)では「自筆譜ー清書」(ハイフン入り)を見てきました。1999年当時、「自筆譜ー清書」の訳語を決めたのは田村進先生と米谷治郎先生で、ウィーン原典版(重訳)の「自筆清書譜」という訳語を当然ご覧になっていた上のことと思われます。
ウィーン原典版で「自筆清書譜」であったにもかかわらず敢えて「自筆譜ー清書」となさったのは、エキエル先生の書かれている autograf-czystopis を忠実に訳したためということは明らかです。ただハイフンを入れることは一般的ではなく、14年前からはハイフン無しで「自筆譜清書」「自筆譜下書き」などと書き分けるようになっています。
ハイフンの有無
例えばPolonez-Fantazja は現在まで「幻想ポロネーズ」という曲名で定着しています。しかし「ポロネーズ幻想曲」のほうが正しい、という意見をしばしば目にします。そのまま自然に読むべきであると(ハイフンは外す)。
またImpromptu cis-moll WN46 はこれまで Fantaisie-Impromptu, 日本語では「幻想即興曲」と呼ばれてきました(ハイフンなし)。
ハイフン入りは一般的でないため「自筆譜清書」は14年前から。ショパンの専門家たちは「自筆譜ー清書」「自筆譜清書」に慣れており、ポーランド語で資料を読んでいれば autograf-czystopis を頻繁に目にするため、却って「自筆清書譜」には違和感を感じるようになっています。
パデレフスキ版では「自筆譜」のみの表記がほとんどです。
音楽学者/ショパン研究者の意見
2021年11月、音楽学者/ショパン研究者の方が質問してくださり、それに答える形で触れました。
そのショパン研究者の方は、私への質問の少し前にラジオのインタビューで「自筆清書譜」という言葉への違和感について語っていらっしゃり、ラジオでとくに発言なさるくらいですから、大きな違和感を持っておられたであろうことがうかがえます。
このショパン研究者の先生は、「日本のショパン研究で使用される文言の訳がそれぞれに違っていることでピアノの先生たちに混乱が生じているため、(できれば統一できるようにと)定期的に勉強会を開」いていたショパン研究者グループの中心メンバーでいらっしゃいます。
音楽学者/ショパン研究者として長年「自筆譜ー清書」「自筆譜清書」に馴染み、またポーランド語文献では autograf-czystopis に慣れ親しんでこられ、「自筆清書譜」に大変戸惑われた(「ウィーン原典版では『自筆清書譜』であることをお知らせしました)。
このように、ショパンの専門家であればあるほど「自筆譜ー清書」「自筆譜清書」の方が自然だと感じる傾向にあります。
人は慣れないもの、初めてのものに戸惑い、違和感を持つ
「自筆清書譜」という言葉に慣れていらっしゃる方は、きっと「自筆譜清書」を初めて目にして違和感を覚え、勝手に新しく訳語が ”作られた” のだと勘違いされたのでしょう。
常に「A 自筆譜清書」と記されている
「自筆譜から(誰かが)清書したように受け取られるおそれがある」との指摘にはなるほどと思いました。「自筆譜清書」の場合、ショパンの自筆譜から他の誰かが清書した「筆写譜」であると受け取られる可能性があると。
「自筆譜(清書)」であればそう受け取られる危険は避けられるかもしれません。しかし原語は autograf-czystopis で括弧はなく、括弧はできれば使わないほうがよいと思われます。
4月に触れたように、自筆譜では常に A という Autograf/Autograph の略語がすぐ左にあるため、幸い筆写譜 Kopia/Copy に間違われる心配はありません。
ナショナル・エディションにおける自筆譜/筆写譜の種類の例
(「自筆譜清書」は自筆譜で清書。つまり自筆譜であり清書である。)
[A] 自筆譜は現存しない。
As スケッチ
AI 自筆譜下書き、部分
AI 自筆譜第1稿
A 自筆譜清書
A 最終稿の自筆譜
A 最終稿の自筆譜清書
AII コーダなし、細部は最終稿に近い自筆譜清書
AwL ショパンが弟子レンツのために書き入れたヴァリアントの自筆譜
ASz シェレメチェフのアルバムにショパンが記念に書き入れた自筆譜
A3 時期的に最も遅い自筆譜
KX 筆写者不明の筆写譜
KF フォンタナによる筆写譜
KG グートマンによる筆写譜
脳への思いやり
演奏者は机の前でゆったり解説を読むとは限りません。むしろ練習に集中し切っている時にピアノの譜面台に置いた状態で、神経・聴覚・触覚・脳をはじめすべてが研ぎ澄まされた状態、カッカしている状態、長時間集中し続けている状態で読むことが多い。その時、多くの種類のある自筆譜について、「自筆譜」と「自筆と譜の間に別の言葉が挟まっている言葉」の混在は脳にストレスがかかります。演奏会やレッスンが近づき、暗譜(記憶の定着)のためにフル回転している脳なのです。
自筆譜には「下書き」「清書」「最も遅い時期の」など様々な種類があります。自筆譜という3文字をまず脳に刻み、次いでその種類がわかれば脳に余計な負担がかからない。「自筆譜」「自筆譜」「自筆譜」と見てきて「自筆清書譜」は脳に負担がかかる。「譜」だと思っているところに突然「清」が現れるのですから。
演奏家の極限状態をこの方に想像していただくことは難しいでしょうか。脳へのストレスのかかり方の違いは大きいです。演奏者への最大限の思いやりの結果、どちらももちろん誤りではないが、ナショナル・エディションの場合は「A 自筆譜清書」の方が脳のためには明らかにベターです。演奏家のことを最大限思いやっている。
ナショナル・エディションは何よりもまず、演奏者のために作られています。
自筆譜という情報がまず目に、脳に入る。そしてそれが下書きなのか第何稿なのか、清書なのかが次にクリアに入ってくる。このように整理して書かれていることがわかれば演奏者の脳は“安心”し、余計なストレスがかかりません。「譜」の文字が来ると思っていたところに「清」の文字が来て「えっ」とならないほうがよい。練習に集中し切っている時の脳の極限状態は、机の前で落ち着いて読んでいる状況とは大きく異なります。
どちらに慣れているかによる
「自筆清書譜」に慣れている人は「自筆譜清書」を目にして驚き、違和感を感じておかしいと思う。一方、ショパンの専門家であればあるほど「自筆譜ー清書」「自筆譜清書」に慣れており「自筆清書譜」に違和感を覚える傾向がある。
ショパンの専門家は驚いている
「自筆と譜の間に(サンドイッチのように)挟むなんて」と。どちらの場合も自然な反応です。どちらも誤りではない。ですから「明確な誤り」と言うのは正しくありません。ショパンの専門家たちはこの発言を聞いて、一体何を言っているのかと驚いている。
誤りではない
音楽学者/ショパン研究者、19世紀の音楽を専門とする音楽学者の方々との話し合いを今後も続けます。誤りではない。しかしさらに考えてみようということです。
日本語版プロジェクト、作業の実情
また「自筆譜清書」への修正で出版社側へ多大な負担、とこの方がおっしゃるのは、このプロジェクトの実情をご存知ないためそう思われるのでしょうが、正しくありません。
この語に限らず、大文字にすべきでない dur を 大文字 Dur にするよう強制されたり、必然性のないことを強いられる場合が多く、その根拠は明らかでなく、不正確なことを言われる。監修者の言うことが二転三転することがある。首尾一貫していない。その場合は従うべきではないのです。「(重訳の)ウィーン原典版にあるから」に過ぎず、アーツ出版(ジェスク音楽文化振興会)でのナショナル・エディション日本語版で考えられ、決定したことは考慮されていない。訳者たちが忍耐強く繰り返し訴えることで様々な事柄が初めて動きます。またこの場合、出版社ではなく監修者です。
また通常の対話が不可能な場合が多い。エキエル先生が望んでいた事柄を知りながら平気で破壊する。複数翻訳者の訴えに耳を傾けようとはしない。一生懸命に対話を求めても不可能であれば、対話以外の方法しかありません。この方は監修者によるパワーハラスメントの壮絶な実情をご存知ないため、そんなふうにおっしゃることができるのでしょう。