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言葉に起こされることがある

言葉に起こされるとか、言葉にしないと気持ちが悪いとか、言葉にしないと寝れないとか...。

この1年半くらい、そんな時があった。

その現象に自覚的になったのは、適応障害・抑うつ状態と診断されて休職していた期間のとき。

自分で決めた小さなことでも継続できるように、1日1回内容は全く問わないから、とにかくnoteを書くってことを決めてから。

noteを書く=完璧な綺麗なまとまったnoteを書かなきゃ

という思考に捉われていた自分にとって、ただただ「今日は何も思い浮かびませんでした」ってひとことだけでも、書いて公開することも、「決めたことを継続する」ためには必要だと思って。完璧主義だったり、何かに捉われている自分からすこし変わりたくて、始めた。


気づいたら、朝起きたらnoteを書くようになっていた。その時からすでに、すこし眠くても、身体に気怠さが残っていても、あ...書かなきゃ...って思って、起こされてnoteを書いていた。


当時は1LDKに住んでいて、パソコンのタイピング音がまぁまぁするので、トイレに籠もって書いてたりもした。あと、書いている時って、自分も冷静じゃないというか没入している感じがしていて、あまりその姿を見られたくないから、閉じこもりたくて狭い空間が心地よかったりもしていた。


なんかずっとこの現象が、怪奇現象?な気がしていた。気持ちわるい?と思われるんじゃないかというか...。


言葉に起こされるんです...


って、目の前の人に言われても、ほぉ...としか反応できないよなぁ〜というか、自分が逆の立場だったら、ほぉ...ってなるよなぁ〜と。


でもなんか、最近ようやくこれは「個性」であり「つよみ」なのかもしれないなぁ〜と思えるようになってきた。


共感力が強すぎて、誰かの想いに触れると、なぜか自分が書かずにはいられなくなっている時がよくある。


たま〜に、憑依しているなぁ〜って思う時がある。「いたこなの?」って言われたこともある...。苦笑


当時「いたこ」って言葉を知らなくて、「いとこですか?」って聞き返したくらい...無自覚だった。


詩を描くことが増えたのも、言葉に起こされている感覚で、朝寝ぼけている記憶の中で、誰かの記憶に交差しておりてくるから紡いでいる...。


だからじぶんじゃない感覚がとてもする。


想いに触れると、言葉にしたくなるのだけれど、それが文章のようなエッセイのようなこともあれば、詩という、もっとカタチが捉われていない自由なものもあったりする。


おもしろいなぁ〜と思うのだけれど、この人と話すと詩になりやすい...。この人と話すとnoteになりやすい...。みたいな現象もある...。(いよいよ、よくわからないこと話してるなぁ〜と思ってきたけど、まぁこの際自分の身体に起きている現象を言語化しておこうっと......。)


今日も、触れた想いや情景に、過去のじぶんと重なり合わせて、あぁ〜書かなきゃというか、書きたいなぁ〜というか、あ、パソコン開いちゃいましたよね...。みたいな状況になって、なんでこんな風になるんだろう〜でもこれも受け入れるか〜みたいなことを整理しようと思っていたら、前置きだけで1300文字も綴っていた。


ので、一旦この辺にしておこうかな。ずっといつか書きたいなぁ〜って思っていた、じぶんの中での変化について、じぶんの整理のためと、まだ見ぬ誰かに届けたいとつき動かされた時に、たぶん書くと思うから。


言語化において無理をしない。


ってことは、ここ最近意識するようになっている。

言語化したい欲が高すぎると、生きている中で、全て言語化したいモードになって、何も先に進めないというか、自分が言葉に苦しめられちゃう時もあるから。


言葉に残しておきたいなぁ〜とぼんやり思っているうちは、そっかぁって受け止める。もうパソコン開き出したり、スマホのメモ帳を無意識に開き始めて綴り出しているときは、もう言葉にしないと気持ちわるくて、寝れなかったり、次に進めなかったりするから、それはそれで受け入れて、ちょっと30分だけその時間を大切にするようにもしている。


お腹が空いたから、きょうはこのへんで。

TOPの画像は、たぶん言葉に起こされたのか、太陽に起こされたのか、朝焼けをよく見るようになっていた昨年の今頃の朝焼け。










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