「わたしには何もない」と絶望したから、線をつなぐ
4回。
これは、わたしが過去2年間で引越しをした回数。
転勤じゃない。進学でもない。
住みよいところを求めて、自ら進んで住む場所を変えたらこうなった。
すべて納得して、決めた結果だった。けれど…、
「これでいいのだろうか」
あるとき急に不安になった。
なぜなら、あまりにも「また?」「なんで?」と言われることが多かったから。周りが、納得しなかったから。
国立人口問題・社会保障研究所の調査によると、全世代の平均引越し回数は3.04回らしい。つまり、「人は一生のうちで3.04回引越しをする」ということ。わたしはその平均値を、2年で優に超えてしまったことになる。
確かに、これなら「また?」と言いたくなるかもしれない。
あまりにも住処を転々としていたので、友だちからは未だに、「今は何処に住んでるの?」と聞かれる。
4回目の引越しのときは、さすがに無駄な出費、無駄な時間を重ねてしまったと思ったし、自分でも「やり過ぎか」と後悔した。
けれど、わたしにとって「住みやすさ」は大事で、住んでみないとわからないこともあって、新しい環境にも興味があって。どうにも止められない衝動だった。
さらに数年経った今も、半年単位で何かしらの「大きな変化」がある。例えば、仕事は毎年変わっているし、それに付随して、相変わらず住む場所も変わっている。(懲りない)
「ほんとうに、これでいいのだろうか。」
やっぱり、ときどき不安になった。
住む場所を変え、仕事を変え、身軽に生きてきた。
自由奔放に、自由を選んで生きてきた。
確かに、まだ30代前半でありながら貴重な体験をたくさんできて、豊かな人生だと思う。
けれど、ふと思ったのだ。
わたしには、何もない。
仕事は、さまざまことに手を出しては、途中で「もういいかな」と手放してしまう。手放したら、すぐに新しい環境へ飛び込んでゆく。
冷静になったとき、わたしは一体何をしたいのか。
わたし自身が、わからなくなった瞬間があった。
たいした経歴も、成果物も、手元には何も残っていないのに。
でも、「自由を選ぶ」とは、こういうことなのかもしれない。
わたしが思うに、自由とは、変化を恐れないこと。変化することを選択しても、「わたしは大丈夫だ」と安心できることが、自由。
安心は、生きていくなかで大切。安心が、最も自分を支えてくれるからだ。
住む場所も、働き方も安定しない。
けれど、わたしにとっての「よりよい未来の可能性」に投資することや、自由を選んできたからこそ、「大事にしたいこと」も変化した。
「大事にしたいこと」と言えば、例えば「暮らしのテンポ」。寝るとか休息などのタイミング。はたまた、エネルギーを入れ時の見極めとかが、それに当たる。つまりは、からだの調子、こころの調子を第一に考えるということだ。
だから「暮らしのテンポ」を軸に、「今は寝た方がいい」とか「今出かけた方がいい」など、行動のためのアンテナを、いつもピンピン立てるようになった。
でも、そこが自分の"肝"だと気づけたのは、住む場所をはじめとした生活スタイルを、流れるように変えたからだ。
いつも刺激が隣り合わせの生活だからこそ、休むべきタイミングは潔く休むことが、わたしにとってベターなのだとわかった。
こうして生活スタイルを変えたことで、日々の行動、セルフケアなど、小さなことで自分自身を喜ばす自信、知恵がついた。
そう考えると、目には見えないけれど、自分だけが知っている「成果」が、ちゃんとある。
こうして過去の些細な決断を手繰り寄せてみたとき、「わたしは何もない」なんてことなかったんだな、と気がついた。
点と点が線になった瞬間、再びこころが安心感で満たされた。
「夏目漱石も引っ越し魔だったらしいですよ」
引っ越ししすぎのわたしを、ネタとして笑ってくれた友人がいた。
調べてみたら、夏目漱石はじめ、葛飾北斎、江戸川乱歩、ベートーヴェンなどなど、引っ越し魔な偉人が結構いるらしい。(え?偉人もなら、仕方なくない?笑)
そんな感じで、「引越ししすぎ」は、今となっては笑いのネタである。
さらには、引越しをきっかけに、わたしのミッション(使命、存在意義)も定まった。
「取捨選択力のあるライフスタイル、愉快な生き方をする」
それが、今のわたしのミッションだ。
「2年間で4回引越しをした」という、一度は後悔をした過去が、笑いのネタとなり、今ではわたしの生き方を決める要素のひとつとなっている。
「何が人生を変えるか」は、時間が経ってみないとわからないものなのかもしれない。
無駄な時間も、無駄なお金も、事実として確かにあった。
それにより「ほんとうに、これでいいのだろうか」という迷いが生まれた。
でもここで、自分で選択したことの点と点を繋ぎ合わせて、線にしてみる。そうして初めて、「ほんとうに、これでいいのだろうか」の問の答えが紡ぎ出されるのだ。
「これだから、よかったのだ」と。