I am who I am. 教えてもらったこと①

聖書の中に、神様が「私はある。私はあるというものだ」と言われる箇所がある。「I am who I am」または「I am that I am」などと表現されることも多い。

私はこの言葉が好きだ。この言葉を私に最初に教えてくれたのは、かつて勤めていた会社の社長だった。

<いと小さきものにすべからく優しくあれ>
人生のモットーは何か、というような話になって、何か壮大な目標のようなものを語った気がするが覚えていない。社長はニヤっと笑ったあとで、
「じゃあ、教えてあげよう、生きていくにあたって君が守るべきことは、自分よりも小さきもの、弱きものと君が判断したなら、彼らにすべからく優しくすること。眼の前にそういう人がいたら道を譲り、手を貸し、ドアを開きなさい。それだけでいい。人はそれで生きていける」
と言った。
「このクソジジイ、このガキの行儀悪いこと!と思ったって一瞬のことじゃないか。簡単なことだろう。君がドアを開けて待つのにどのくらいエネルギーがいるんだ。いいじゃないか、人生のほんの数秒を意図しないことに使ったって」と言って笑った。

<「やる」から始まる>
あるとき、会社で重要な役割を担う人を選任することになった。社長が誰かやるものはいないか、と尋ねるとみな下をむいて押し黙った。
たった一人だけが手を挙げて、社長はその人をその役割に指名した。つまり無投票当選のようなもの。
私は社長に「なぜあの人なのですか?選挙にすればよかったのでは?」と尋ねた。
「やる、と言ったからだよ。すべては『やること』から始まる。私はみんなにやらないかと尋ねたが誰一人手を挙げなかった。彼は手をあげた。それならば『やる』人にやらせるべきである」。
さらに続けた。
「いいかい、人はいろんな目先のパフォーマンスに惑わされて人を評価してしまいがちだ。好き嫌いももちろんあるだろう。しかし、ものごとの始まりはまず、やると決めることからだ。『周囲から推挙されたらやる』という人間よりも自分から『やる』ということがまずスタート地点だ。私が彼を選んだのはそれ以上でもそれ以下でもない」。

<「いる」だけで尊い>
それから話を続けて「〇〇さんのことはどう思う?」と聞かれた。
〇〇さんとは、とくに仕事ができるわけでもなく、コピーをとったり書類をファイリングしたり、いわば雑用係のようなことをしている女性だった。とくに仕事ができないからいつの間にか雑用係のようになってしまった、というのが本当のところかもしれない。
影が薄い彼女に私は何の感情も持っておらず、だから改まって聞かれると答えに窮した。
「うーん」と言って考えていると、社長は
「そこにいてくれるということが、まずありがたいことだと思わないかい?」と言った。
たしかに彼女は遅刻することも欠勤することも早退することもサボることもなく、常にきちんと会社にいた。
「もちろん会社としてはパフォーマンス力があり稼いでくれる社員はありがたい。彼女のような存在はイライラするかもしれない。でもね、そこにひたすら『ちゃんといる』ということもとても尊いことだと思わないか」と続けた。
「彼女が必ずいる、という安心感があるから、私たちはいいようにアポイントをとってほいほい出かけられるんだよ。心の片隅で会社がもぬけの殻になることはない、と思っているんだよ」。

「いいかい、ものごとは『I am』、私はある、ということが一番大切なんだ。どんなものごともそこがベースだ」。

「いる」こと。
「やる」こと。
「小さきものに優しくある」こと。

たった3つだけの私への人生訓。シンプルで簡単。いつもこの3つを振り返ればいい。上の2つはたまにトンズラしたくなることもあるけれど、3つ目は特に簡単(笑)。
だから私自身も「いる」人、「やる」人、「優しき人」をまず大切にしたいのだ。

社長の教えてくれていることが、聖書からきていると知ったのはかなり後になってのことだった。そういえば社長は自分でもHOW TO本を書いているくせにHOW TO本が嫌いで(笑)、「あんなものを読むくらいだったら、聖書か三国志を読め!古典を読め!自分の頭で考えろ!」とよく叱られた。

本は好きだけれど、分厚い本にはいまだ挫ける情けない弟子だけれど、あなたの教えてくれたこと、80%くらいは守れているような気がします。ありがとうございます。

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