#BlackLivesMatter を自分に引き寄せて考えてみる

5月25日にミネアポリスで起こった、黒人男性ジョージ・フロイドさんの白人警官による殺人事件が決定的な要因となり、アメリカ全土で連日空前の規模の抗議運動が行われている。ミネアポリスの警察署には火が放たれ、怒りの炎に焼き尽くされた。その一連の報道を、92年のロス暴動を思い出しながら見ていた。「またか」と思う自分もいた。しかし、今回はあまりに生々しい犯行時の映像に加え、すでにアメリカにおけるコロナの被害が甚大であったこと、中でも感染者・死亡者における黒人の割合が非常に高かったこと、現大統領の非人道的な対応や態度に私も怒りが収まらなかった。繰り広げられる暴力と破壊と悲しみによる絶望感と、もしかしたら今度こそ何かが変わるのかもしれないという期待を毎日行ったり来たりしながら、事態の進展を必死で追っている。

幸か不幸か、現在自分はコロナの影響でほとんど仕事がないので、ここ1週間ほどはずっと報道やSNSを見ながら、色々と考える時間があった。これまでやるべきだと思いながら"忙しい"を理由にやってこなかった様々なことを反省もした。その一つが、差別問題についての見解をまとめて発信するということ。だから、私はそこから始めようと思う。私個人がこれまでの人生で学んだ人種差別問題の知識を、人種差別問題がよく分からない、自分は絶対に差別しないから大丈夫、そう思っている人に読んでもらいたい。

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差別問題と自分

まず、自己紹介をしておくと、私は日本国籍の日本人である。十代の時に7年間オーストラリアに住み、二十代は首都圏で過ごし、三十代でベルリンに越してきて10年(もうすぐ11年!)になる。人生の半分弱を白人中心社会で生きてきて、これまでに身の危険を感じるような差別に遭ったことはないが、殺意のような(差別的な)眼差しを向けられ緊張したことは数回ある。自分に向けられた差別で怒りに震えた、という記憶は数えるほどしかないが、いきなり罵声を浴びせられたり、明らかに見下す態度を取られたりからかわれたりと言ったことは、まあまあ日常的に経験してきた。

思春期からこういう体験をしてきたことは、人生においては財産だったと思う。日本では私はマジョリティだが、外国社会ではマイノリティであり、地球全体の現在の人種ヒエラルキーでは、頂点に立つ白人より明らかに下の存在だ。ずっとマジョリティとして生きている人には見えない景色が見えるようになる。

オーストラリアの現地校で英語が分からず、落ちこぼれの屈辱感を味わいながら過ごしていた頃、たまたまPublic Enemyを聴いた。多分、最初に聴いたのはその頃一般チャートでヒットしていた「Fight The Power」とかだったと思う。歌詞などほとんど理解していなかったが、むちゃくちゃカッコいいと思った。同じ頃(90年代初頭)に『Do The Right Thing』や『Boyz N The Hood』などの映画が公開されて、ヒップホップをサウンドトラックにした"リアル"なブラック・カルチャーは反抗期の中学生にとってクールでものすごく刺激的だった。ロス暴動が起こり、映画『Malcolm X』に衝撃を受けて、自伝を読んで学校の読書感想文を書いたりもした。だから、アメリカの黒人差別問題に関しては、この頃からかなり積極的に触れてきたし理解しようと努力してきたと思う。中学校の授業で『To Kill A Mockingbird』(邦題『アラバマ物語』ハーパー・リー著)も読まされた。白人女性のレイプの容疑をかけられた黒人男性の弁護人となった白人弁護士の物語で、英語圏の中学・高校では人種差別や偏見について学ぶ教材として教科書のように読まれている本だ。少なくとも、中学生の頃から「人種差別はいけない」というマントラは刷り込まれていた。

その後、高校、大学と益々ヒップホップにハマッていき、その後はデトロイト・テクノやシカゴ・ハウスにのめり込んでいたので、私個人の音楽的な基盤は間違いなくブラック・ミュージックであり、ブラック・ミュージックに育てられ、人格のかなりの部分も形成されたと言っていい。今自分のレコード棚をざっと見渡しても、8割くらいが黒人アーティストの作品だ。交友関係や取材のインタビューなどでも、人種差別のトピックには何度も触れてきた。音楽の現場や仕事を通して、かなりの種類の国や人種の人たちと交流してきたと思う。

彼らの話は一生懸命聞いてはきたし、その理解に努めてはきたが、私は黒人ではない。白人社会におけるアジア人に対する偏見に遭うことはあっても、黒人が受けているような差別を私が受けることはない。この事実を認識しておくことは非常に大事だ。なぜなら、あなたが私のようにとりたてて目立つような容姿ではない日本人で日本の国籍を持つ者なら、あなたは差別される側ではなく、する側になってしまう確率が極めて高い

人種差別主義と構造的人種差別

中学生の自分には分からなかったが、今ははっきりと分かることがある。それは、「人種差別はいけない」と認識・主張することは、実際に「人種差別をしない」ということにはならないということだ。「私は人種差別主義者(レイシスト)だ!」と声高に言う人はまずいないし、大概の人はレイシストと呼ばれたら怒る。端から見れば明らかに偏見に満ちた差別的ツイートを繰り返しているような人物でも、自分をレイシストとは認めない。本人はそれが差別だと思っていないからだ。人種差別問題にあまり触れてこなかった人は、人種差別主義者というと、恐らくKKKやナチス、もしくは先日のフロイドさんの身に起こった出来事のような残虐行為を想像する。自分はそんなこと絶対にしない、大半の人はそう思っているし、実際そんなことはしない。では、それは差別がないということ、差別をしないということかというと、そうではない。

そんな残忍行為は自分の周りでは見たことがないから関係ないとか、日本に差別はないと思ったり、「差別反対!」と意思表明すれば、自分は差別とは無関係な人間になれると思いがちだが、残念ながらそんな単純なものではない。

フロイドさんの事件を例に説明すると、あの膝を押し付けて殺害した警官ショーヴィンは、誰が見ても明白な白人至上主義者の極悪人である。それに手を貸した3名の警官も、フロイドさんの命を何とも思わない非人道的な犯罪者であることは疑いの余地がない。しかし、これはこの4人の差別主義者/殺人者だけの問題ではない。激しい抗議運動が起こったのは、もちろんあの4人の殺人者に裁きを求めることも含まれていたが、警官による黒人の殺害という痛ましい事件がこれまでにも数え切れないほど繰り返されてきたことに対してだ。このサイトによれば、例えば2015年だけでも104名の丸腰の黒人が警官によって殺害されており、そのうち起訴されたのは13件、有罪となったのは4件だけだという。つまり、アメリカでは警官が丸腰の黒人を殺害しても、罪に問われてこなかった。ショーヴィンたちはそのことをよく分かっていた。あの映像が広まり、これだけの抗議が行われなかったら、ほぼ間違いなく今回も起訴されることはなかっただろう。警官に殺されているのは黒人だけではないが、丸腰の黒人の被害者は、白人の実に5倍の数だという。つまり、アメリカには黒人を殺しても警官が罪を問われない社会的構造がずっとあったということだ。

もう少し身近な例をもう一つ挙げる。これは日本のメディアではあまり報道されなかったようだが、奇しくもフロイドさんの事件と同じ5月25日にニューヨークのセントラルパークで起こった出来事で、私はこの報道を見て震撼した。簡単に説明すると、エイミー・クーパーという白人女性が、リードを付けることが義務付けられている公園のエリアで犬を放していたことから、バードウォッチャーの黒人男性クリスチャン・クーパーがそれを注意したところ、なぜか逆ギレ。リードを付けることを拒否したのでその様子を男性が携帯で撮影し始めたところさらに激怒、ヒステリックに「警察を呼ぶわよ、アフリカン・アメリカンの男に脅かされてると言うわよ!!」と叫び出し、男性が「したければどうぞ」と言うと、本当に通報し、電話口で何度も"アフリカン・アメリカンの男性"ということを強調するのだ。この一部始終の映像を男性の家族がSNSで流したところ大炎上し、女性は人種差別を理由に即座に勤務先に解雇された。

この女性は、この瞬間に自分が差別をしているという認識がどれだけあったのだろうか。別に男性に直接的な危害を加えたわけではなく、"Nワード"を発したわけでもない。彼女が逆ギレした理由はよく分からないが、もしかしたら黒人に注意されたことが気に食わなかったのかもしれないし、たまたまイライラしていた日だったのかもしれない。シカゴ大卒でニューヨークの投資会社に勤めていたという、教養もあるはずの一般女性が、映像を見る限り怒りに任せて口走ってしまったように見える(その後、この女性は自分の非を認めて謝罪している)。しかし、だからこそこれはとても恐ろしい。この女性は、自分の立場が男性より強いことを分かっていた。男性が注意したことの方が正しく、女性がルールを守っていなかったにもかかわらず。白人女性が黒人男性を通報すれば、黒人男性の立場が非常に厳しいことを分かっていたからこそ、「通報するわよ」と脅したのだ。黒人男性にとっては、これが死刑宣告になり得ることを、この女性は知っていて、意識的にか無意識にかは分からないが、社会の差別的な構造を利用したのである。女性の方がおかしいということが伝わる証拠映像を男性が撮っていなかったら、どうなっていたのか。ここにショーヴィンのような警官が駆けつけていたら、どうなっていたのか。

この女性にあって男性になかったもの、それが「white privilege(白人の特権)」だ。NYTの記事によれば、この男性はハーバード大卒でMarvel Comicsの編集者やニューヨーク市の自然保護団体の役員だったこともあるという人。きっと大変な努力をしてきたことだろう。しかし、この男性がこの女性の何十倍の努力をしたとしても、この特権だけは絶対に手に入れることはできない。

このように特定の人種に特権を与え、他の人種からは権利を剥奪する社会的構造、これを構造的人種差別(structural racism)という。フロイドさん殺害に関与した警官は、抗議運動のおかげで、すでに第二級の殺人罪と殺人ほう助罪などで全員起訴されたが、抗議は続いている。プロテスターたちが求めているのは、この長年続いてきた構造の解体・改革だからだ

逆に、この構造を変える努力をしないことは、これを容認していることになる。積極的に攻撃的な言動をしていなくても、特権を享受し続け、この構造に気づかない、気づこうとしない、無批判でいることは、構造の維持に加担していることなのだ。そして構造を変える努力は、特権を持つ側がしなければいけない。「人種差別反対!」と画像やハッシュタグを投稿していつかなくなることを願っているだけでは、いつまでたっても構造は変わらない。それだけでは不十分なのである。

Privilege [=特権]を知る

そのためにまず必要なのは、自分が享受している特権を知ることだ。差別問題に取り組む上で、「privilege(特権)」は最も重要なキーワードだと言っていい。

人種差別とその構造は全世界の隅々に張り巡らされている。もしあなたが差別を経験したことがなく、世の中にそういうものがあることをよく理解できないないら、それがあなたの大特権だ。あなたが暮らす社会のヒエラルキーの一番上にいること、そしてあなたの周りには同じ特権を享受する人ばかりがいることを意味する。テレビの報道やSNSなどをオフにすれば、それに触れなくて済む人は、アメリカの白人と全く同じ立場である。差別される側の人は、人種差別をオフにすることはできない。

つまり、日本社会における日本人は、現在世界的に白人に求められているのと同じことをすべき立場にある。私やあなたが当たり前に享受していること、例えば投票権、日本のパスポート、不自由なく公用語の日本語が読み書きできること、健康保険があり義務教育を受けられること、容姿や肌の色で相手に対応を変えられないこと、警察に助けを求めたり文句を言えば取り合ってもらえること、これらは全て特権だ。これらの特権を持たない人はアメリカだけでなく、日本だけでなく、世界中にたくさんいる。自分がどんな特権を持ち、それを持たない人たちの生活がどんなものか、想像し知ることから始めなければならない。

例えば、私個人を例にすれば、このように文章を書けばある程度の人数の人が読んでくれることも特権だ。あなたに部下や生徒がいるなら、指導できるという特権を持っている。お店や企業の経営者なら、経営ポリシーを変えられるという特権を持っている。広告やメディアに関わっているなら、不特定多数に情報を伝達できるという特権を持っている。

日本は、アメリカのように白人と黒人(有色人種)という視覚的に分かりやすい対立構造ではないので、さらに見えにくい。特に特権を享受している側には見えないことが多い。あなたに差別が見えないとしたら、それこそが特権を持っている(=privilegedである)証拠だ。

すでにアメリカでの出来事と重ね合わせて取り上げられている、最近の日本での事件を例に考えてみよう。

この事件のクルド人の被害者を、例えば白人のフランス人に置き換えてみたらどうか。警官たちは、まず彼の車を止めなかっただろうし、例え止めて職務質問をしたとしても、暴行を加えることはなかっただろう。そんなことをしたら大問題になる。外交問題にさえ発展するかもしれない。でも、クルド人に対してはそれをしたということは、彼らはクルド人が弱い立場であることを分かっていた。度々報道されている、入国管理センターで収容されている人たちが受けている劣悪な待遇と精神的・身体的暴力も同じことだ。彼らの存在がほとんどの人には見えておらず、最も弱い立場であり声を上げても届かないからこそ、同じ日本人や、白人には絶対にしないであろう残忍な扱いをし、それが問題にならないと思っている。ミネアポリスの警官と何ら変わらない。日本でも、特権を持つ者は優遇され、持たない有色人種は冷遇される構造は確実に存在している。

なぜ #BlackLivesMatter が重要なのか

これだけ世界中に様々な差別があるのに、なぜ #BlackLivesMatter が今重要なのか。「白人の命だってアジア人の命だって同じくらい大事」という主張はよく見るし、 #AllLivesMatter と主張する動きもある。それは確かにそうなのだが、この主張をする人たちが見落としているのが、ここまで説明してきた特権と構造の存在だ。

簡単に言えば、白人の命も、日本人の私たちの命も、今まで大事にされてきたということだ。コロナの政府対応を見ているとそうでもない気もしてくるが... それでも社会において相対的に見れば、大事にされてきた。市民の安全を守ることが役割であるはずの警察に、いつどうやって殺されるか怯える必要はなかった。近代民主主義のリーダーで「自由の国」であるはずのアメリカにおいて、黒人はずっと自分たちの手では壊すことができない差別的な社会構造の中で生きることを強いられてきた、そのことに抗議するスローガンが #BlackLivesMatter なのだ。

つまり、黒人の命が他の命よりも大事だと言っているわけではない。大事にされてこなかった命を他と同じように大事にすべきだと言っている。 だから、#AllLivesMatter という、より普遍的に見えるスローガンで、このマイノリティの叫びを覆い隠しては絶対にいけない。黒人の命を大事にするということは、それを大事にしてこなかった構造を変え、特権を持つ者だけでなく全ての命が同じように大事にされる社会を作ることを意味する。

音楽ニュースを追っている方なら、ビリー・アイリッシュがこの件でブチ切れツイートをしたことを知っているかもしれない。

まだ若く最も特権を享受している立場の白人である彼女のような人が、このように問題の複雑さを理解し、自分の影響力の大きさを理解し、ファンに伝えようとしていることにはちょっと感動するし、希望を感じる。

冒頭で触れたPublic Enemyなどもいい例だが、黒人はずっとこのことに抗議し続けてきた。奴隷時代から400年間、社会運動だけでなく、音楽でも文学でも絵画でも映画でも、自由と平等をひたすら訴え続けてきたと言っていい。Nina Simoneも、Fela Kutiも、Bob MarleyもUnderground Resistanceも。それを私たちはエンターテイメントとして、娯楽として、ファッションとして消費してきた。それをカッコいいとか美しいと感じることは、もちろん肯定的なことではあるが、彼らが差別的構造に置かれていること、命の危険にさらされていることをずっと見て聴いてきたはずなのに、消費や利用以上のことを私たちはしてきたか。それを変えようと努力したことはあったか。現在音楽やエンターテイメント産業も厳しい批判にさらされ、連帯の表明だけでなく具体的な行動が求められているのは、そういう理由からだ。

構造を変えるために行動を起こす

では、署名やデモへの参加、関連書籍を読んだりする以外には、どんな行動をしたらいいだろうか?以下は私が今後自分自身でやっていきたいと思っていることだ。

人種差別をなくすための第一歩は、自分の特権を理解した上で、まず自分自身の言動を省みること。意図的に差別的な発言や行動を止めるのは当然だが、「差別のつもりではない」言動にも細心の注意を払い、常に自分が無意識のうちに加害者になっているかもしれないと疑うこと。この自問を、ずっと続けること。

自分の特権を理解したら、その特権を持たない人のため使う。私自身も経験があるが、私一人でいる時と、(私以上の特権を持つ)白人が同行している時では相手の対応が違うことがある。特権を持つ者が同行しているだけで、相手は構える。だから、#BlackLivesMatter の抗議に黒人だけでなく、白人(やその他の人種)も参加していることは重要なのだ。クルド人に対する差別に抗議しているのがクルド人だけのグループだったら、その声は聞く耳を持たない相手には届かない。相手と対等、あるいはそれ以上の特権を持つ日本人や白人が多数参加したりメディアが報道すれば、無視し続けることは難しくなる。差別を受けている人と一緒に居てあげる、彼らの話を代弁してあげるだけでも、特権を持たない人には大きな助けになる。

金銭面でのサポートをする。構造的差別を受けている人は、そのせいで経済的にも厳しい状況に置かれていることがほとんどだ。もしあなたが経済的に余裕のある個人や企業、組織なら、募金をしたり、商品やサービスを積極的に購入してあげたり、仕事を依頼したり雇用したりすることで助けられる。例えば音楽の世界なら、すでに盛り上がっているBandcampの手数料無料の日(6月5日、7月3日)や、同社が新たに設定した黒人支援の日(6月19日)にPOC(Person Of Colour = 有色人種)のアーティストやレーベルの作品を購入しよう。Spotifyで何百回ストリーミングするよりも、これが最もアーティストの手元にお金が届く。現在はそもそもコロナのせいでイベントやフェスティバルはないが、再開されたら、よりマイノリティを積極的にブッキングしているイベントや会場を選ぼう。もしあなたがイベントの主催や企画をしている側なら、そのプログラムを組む時にラインナップの多様性を考えよう。特権のある人ばかりがブッキングされ、消費され続けていたら、いつまでも構造は変わらない。

差別について、色んな人と話すこと。私が差別についてより深く理解できるようになったのは、ベルリンに来てからだ。周知の通り、ドイツには人種差別による暗黒の歴史があり、人種差別については常に活発に議論されている。普通に友人同士でもよく話す。特権のある人が一人で理解しようとたくさん本を読むよりも、当事者の声を聞いたり、様々な意見や体験を共有することの方がよほど良く理解できる。だから話題にして欲しい。そして、特に差別される側の声に真摯に耳を傾けよう。されている側としている(したとされている)側の二つの主張があったら、必ずされている側の主張を尊重すること。必ず、差別を受けている側の希望やニーズを聞くこと。良かれと思っても、こちらの勝手な考えの「手助け」やアドバイスを押し付けてはいけない。これは鉄則だ。もう一つ言えるのは、差別主義者の思考は、そう簡単に変わらない。これは宗教を改宗させるようなもの。いくらこちらが正論を並べても通じないので、そこに労力を割くよりは 無自覚・無関心の人に理解してもらうことから始めて仲間を増やしていこう。

差別的な攻撃、嫌がらせの現場に遭遇したら、映像を撮ること。これは、ここ数週間で痛感したことだ。フロイドさんの事件も、エイミー・クーパーの一件も、クルド人男性の事件も、その様子が映像に残っていたから、それがSNSで広まったから、社会問題になった。これらの映像が残されていなかったら、いずれの事件も誰も知らないうちに特権を持つ側に都合のいいように処理されていたことだろう。多くの人が携帯電話で簡単にビデオを撮ることができる時代になったからこそ、今まで特権を持つ者には見えていなかった差別の現実が、実際の映像で見えるようになり、決定的な証拠として突きつけられるようになった。これは革命的なことだ。だから、これは差別ではないかと思う瞬間に立ち会った時は、映像に撮ろう。相手によっては、映像に撮られてることに気づいた時点ですぐに止めるかもしれない。

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ここまで自分自身の頭の整理も兼ねて、人種差別について書いてみた。改めて、これは大変なことであるし、死ぬまで終わることはない。しかも、差別問題は人種だけではない。ジェンダーや経済格差、民族、宗教、障害や病気、ボディ・シェイミング(身体的な特徴をけなすこと)など、社会には残念ながら他にも様々な差別と偏見が満ちている。これを完全に根絶することは恐らく不可能だろうと私も思う。でも可能なかぎり少なくする努力を、一人一人が、特に特権を持つ者が考えて行動に起こしていかなければいけない。それが #BlackLivesMatter の誓いであり教訓だ。


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